本文へスキップ

Nakayama is in between Narita And Haneda International Airport

English Page

国分山国分寺と国指定文化財下総国国分寺跡

国分寺南大門と桜春の国分寺南大門
国分寺の枝垂桜春の下総国分寺跡
国分山国分寺講堂国分寺南大門と大銀杏
国分山国分寺、現在は真言宗豊山派の千葉県市川市国分にあるお寺です。明治の中頃までは金光明寺と呼ばれた今からおよそ1300年前、奈良時代に聖武天皇により全国に建てられた国分寺の一つ、行基菩薩開山の下総国国分寺です。現在の国分寺は、国指定史跡「下総国分寺跡」の上に建立されたのではなく、数度の火災に遭遇しながらも、多くの檀信徒の支援により今尚この地に建つ、下総国国分寺として建立された歴史を今に継承しているお寺です。春には南大門左の桜、秋には大銀杏が美しいです。市川七福神の一つでもあります。

国指定文化財下総国分寺跡と国分山国分寺

下総国国分寺跡下総国国分寺伽藍配置図国分寺仁王像阿形像国分寺扁額国分寺仁王門吽形像

国指定文化財下総国分寺跡

下総国国分寺は、天平13年(741)聖武天皇によって発せられた「国分寺建立の詔」により、一国一寺「金光明四天王護国之寺」として全国に建立されました国分寺の一つです。下総国分寺跡は、その詔によって建立された下総国分僧寺の跡です。現在の国分寺とほぼ同じ場所にあり、創建当時は奈良県の法隆寺と同じ伽藍配置(法隆寺式伽藍配置)で、金堂・塔・講堂が建てられていました。
下総国分寺は、当時の市川市内に国府があったことから、この地に国分寺が建立されたのです。下総国国府推定地(市川市国府台)の東方約850m、下総国分尼寺はこの寺より西北約350mの現国分尼寺跡公園地点に建設されました。寺地は詔に示す好処長久の地として推定されたものでしょう。「市川のむかしばなし」行基菩薩がこの地が詔に適うとして決められ、本尊薬師如来像を彫り安置したとあります。建立年代ははっきりしませんが、奈良時代であることは確実です。
国分僧寺は過去数回の火災をうけて当時のおもかげはありませんが、発掘調査の結果、法隆寺様式の伽藍配置をもつ金堂・講堂・塔の遺構が発見されています。昭和40〜41年に実施された発掘調査では、現在の本堂下から東西31.5m、南北19mの何層にも土を固めた金堂の基壇が発見され、その基壇の中心から北西40mにあたる現在の墓地内に東西26m、南北18mの講堂の基壇があり、さらに金堂の基壇の中心から西へ39mのところに一辺が18m四方の方形の塔跡の基壇がありました。平成元年〜5年の発掘調査では、寺の範囲が東西300m、南北350mほどになることや寺づくりや下働きをしていた人がいた場所などが分かりました。
また、国分寺に使われた屋根瓦を焼いた登窯の跡も近くから発見されました。瓦にある文様は、当時多かった蓮華文とは異なり、「宝相華文」と呼ばれる中国で考えられた当時の流行文様です。
国分寺は戦国期から多くの戦火や災禍の為、創建当時の建物は現存していません。明治以前には創建当時から建つ楼門、本尊の薬師如来をはじめ、釈迦像、帝釈天、梵天王の像を安置した薬師堂、釈迦堂、講堂、本堂、北条時頼寄贈の鐘などがあったと江戸名所図会、葛飾誌略、葛飾誌にあり、創建当時の様子を見ることができたようです。1300年の長い歴史を通して、多くの人びとや檀家の力により、幾度も再建され創建当時の面影を残しています。現在の本堂や南大門などは昭和にはいって再建されたものです。


参考
国分山国分寺南大門案内板
史跡国分寺案内板
市川市ホームページ
改訂新版「市川のむかし話」
新訂「江戸名所図会6」ちくま学芸文庫
ウィッキペディア
房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第8卷葛飾記
房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第6卷葛飾誌略

国分寺毘沙門天 市川七福神

市川七福神毘沙門天像
毘沙門天像(市川七福神の1番)
毘沙門天
七福神の中で、唯一武将の姿をしていて、黄色の身で、忿怒の相をし、甲冑に身につけ、右手に宝棒、左手に宝塔、足の下に邪鬼天の邪鬼を踏みつけている。仏教の御法神で、サンスクリット語ではVaisravanaと呼ばれ多聞と訳します。そのため仏教では別名「多聞天」という名で呼ばれることもある。ヒンズー教ではクーベラの異名を持ち、財宝・福徳をつかさどる神になり、夜叉、羅刹を率い、帝釈天に属して北方を守る神とされた。仏教に取入れられてからは四天王の一尊になり、須弥山の北方に住み、多数の夜叉を率いて北方を守る護法の善神になった。また、密教では十二天の一つ。四天王像としては、法隆寺金堂の「多聞天像」が古く、鞍馬寺本堂、高知県雪渓寺なども有名。日本では七福神の一つとして、財宝をもたらす神として信仰を集めている。財宝を施す神として施財天ともいわれる。融通招福の神として信仰されている。

市川七福神

  • 1番 毘沙門天 国分寺(国分3−20−1)
  • 2番 恵比須天 所願寺(宮久保4−12−3)
  • 3番 大黒天 本将寺(大野町2−919−1)
  • 4番 毘沙門天 淨光寺(大野町3−1917)
  • 5番 福禄寿・寿老人 妙正寺(北方町4−2122)
  • 6番 弁財天 中山奥之院(若宮2−21−1)
  • 7番 布袋尊 安養寺(高谷2−16−35)
  • 8番 一所七福神廻り 妙応寺(本行徳2−18)

参考
国分山国分寺毘沙門天案内板
大辞泉
明鏡国語辞典
ブリタニカ国際大百科事典
市川市ホームページ

国分寺と行基菩薩

国分寺と国分尼寺

奈良時代、天平13年(741)聖武天皇が仏教による国家鎮護のために出された「国分寺建立の詔」により建立されたお寺の総称。聖武天皇勅願により「鎮護国家・五穀豊穣」を祈り、奈良の東大寺を全国の総国分寺、法華寺を総国分尼寺として、日本全国の国ごとに国分寺と国分尼寺をそれぞれ1寺ずつ建立されました。国分寺と国分尼寺と一般に呼ばれていますが、国分寺は正式には金光明四天王護国之寺であり、国分尼寺は法華滅罪之寺です。国分寺は各国の国府の近く、国分尼寺の鐘の聞こえるところに建てられました。本尊は釈迦如来像、国分寺には七重塔を建て「金光明経」を、尼寺には「法華経」を置き、聖武天皇の書写になる金字の「最勝王経」を納められました。また、僧寺には20人の僧、尼寺には10人の尼僧を置くことも定められていました。国分寺と国分尼寺は朝廷から特別の保護もあり、全国の僧尼の監督をする役割を担いました。
平安時代中期以降には、朝廷よりの財政支援がなくなり、国分寺の多くは廃絶しました。現在残っている国分寺の多くは、創建当時と異なる宗派の寺院として存続も、その姿を残しているものは少ない。また、廃絶した国分寺・国分尼寺の多くは発掘調査され、跡地は公園として整備されるなど、各地方で保存されています。
なお、壱岐と対馬には「島分寺」が建立されました。


参考
デジタル大辞泉
明鏡国語辞典
ブリタニカ国際大百科事典
ウィッキペディア


行基菩薩

行基は、奈良時代の法相宗の僧。天智7年(668)河内国(現大阪府)に生まれ、天平勝宝1年(749)2月2日奈良に没しました。俗姓は高志氏。
15歳で出家し、薬師寺で義淵らについて法相を学び、『瑜伽師地論』『成唯識論』などの経典をたちまち理解したという。さらに山林で禅定を修した。
母の忌服を終え、諸国を遊歴して励み、これに従うものは1000人をこえたという。
行基は弟子を連れ、民衆とともに各地に布施屋(無料宿泊所)をつくり、また瀬戸内海の五泊など、道路・堤防・橋や寺院(畿内の四十九院などの建設にあたった。このような活動は、民衆を惑わす行為として、養老1年(717)の詔により僧尼令違反として朝廷により禁止された。しかし、具体的な刑罰は科されたわけではなかった。行基は呪術を穏当なものに変え、それまでの路上中心から寺院中心とする活動に転換することで、弾圧に柔軟に対応しました。
その後、このような朝廷の弾圧にのかかわらず、行基とそれを支持する人々の勢力は強く、朝廷も無視することができないほどとなり、天平3年(731)には行基に師事している者で、男は61歳以上、女は55歳以上の者は入道することが許可されました。天平15年に日本最初の大僧正の位を授けられ、行基は日本宗教界でで最高の位につき、聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺建立に協力し、東大寺大仏殿造営のため、諸方を勧誘して歩くことになりました。
天平21年、聖武天皇以下に菩薩戒を授けてのち、大仏完成の3年前、菅原寺の東南院で80歳(81・82という説もある)の生涯を閉じた。東大寺の「四聖」の一人に数えられている。738年(天平10年)に朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられた。また当時の人々は行基祖菩薩と称したといわれています
行基にまつわる多くの霊験譚が今も伝えらています。『大僧上舎利瓶記』『続日本紀』『日本霊異記』『行基年譜』などでも知ることができます。「行基焼」「行基葺」、そして彼が作った最古の日本全図伝えられる「行基図」は有名です。


参考
デジタル大辞泉
明鏡国語辞典
ブリタニカ国際大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)
ウィッキペディア

下総国分寺・国分山国分寺の交通案内と所在地

下総国分寺・国分山国分寺の最寄り駅と住所

  • JR総武線・総武快速線「市川駅」徒歩30分
  • 京成本線「市川真間駅」徒歩25分
  • 千葉県市川市国分3-20-1

下総国国分寺跡周辺の散歩道


下総国国分寺跡近くの観光名所 ご案内

真間山弘法寺伏姫桜

真間山弘法寺

行基菩薩と弘法大師の創建と伝わる、下総葛飾の万葉の里真間の中心に建つ歴史ある古刹。
手児奈霊堂の桜

手児奈霊神堂

万葉集に歌われた真間の手児奈をお祀りしているお堂。安産、子育て、良縁の御利益で知られる。

春の下総国分寺

下総国国分寺(国指定史跡)

行基菩薩開山伝説もある、国指定文化財下総国国分寺跡とありますが、現在も国分寺は歴史を刻んでいるお寺です。市川七福神の一つ。
郭沫若記念館の芝桜

郭沫若記念公園

中国の文学者・歴史学者・政治家の郭沫若さんの旧宅を移築・改修したものです。春には芝ざくらの可愛らしい絨毯がお出迎えしてくれます。

須和田公園の春

須和田公園

須和田公園は弥生時代後期の須和田遺跡を整備し公園とされた、桜とバラのお花見の名所。
桜土手公園文学の道

桜土手公園文学の道と浮島弁財天

桜並木に沿う延長400メートルの細長い公園には市川市ゆかりの文学者が紹介されています。

芳澤ガーデンギャラリー

芳澤ガーデンギャラリー

四季折々花々に彩られた緑豊かな庭園のあるギャラリー。
木内ギャラリー

木内ギャラリー

明治大正ロマンを感じられる素敵な洋館のギャラリー。

市川市考古博物館

市川市考古・歴史博物館

市川市の歴史や文化を原始から紹介する博物館。国指定史跡の堀之内貝塚もあります。
アイリンクタウン展望施設

アイリンクタウン展望施設

東京を東から一望できる展望施設。富士山と東京スカイツリーを眺める最高のビュースポット。

江戸川の流れ

江戸川と川辺の散歩道

東京と千葉の境を流れる江戸川。河川敷は流域にすむ人々の散歩道。江戸時代は水運の大動脈でした。
春霞の里見公園

里見公園と周辺の散歩道

北原白秋旧宅、弘法大師伝説のある羅漢の井、夜泣き石ほか四季折々の表情を見せる素敵な散歩道。

- 広告 Advertisement -