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Nakayama is between Narita And Haneda International Airport

中山・下総・散歩道

神明社と小栗判官ゆかりの鬼越山神明寺

神明寺山門と大銀杏神明社御神木の黒松
京成本線鬼越駅の東詰踏切を挟み、神明社と神明寺があります。
北に神明社、南に神明寺。神明社は700年の歴史を誇る由緒ある神社であり、小さな境内には幹回り3メートルはあろうかというクヌギの巨木をはじめ、神明社の御神木であり市川市のシンボルである黒松など見上げる程大きな保存木が林立しています。
神明寺は真言宗豊山派の寺院で、室町時代の武将小栗判官伝説の残るお寺です。境内には樹齢700年の小栗判官が馬をつないだという銀杏の大木と、小栗判官厄除出世不動が今に伝わっています


神明神社沿革

神明社社殿鬼越神明社
当神明社は天照大神様が御祭神である。
古老の口碑によれば約700年前より鬼越村に鎮座ましました。
境内には元和2年(今から368年前)伊勢の皇太神宮より遷宮されたとの石碑によれば現在の社殿は明治年間の造営である。
境内には道祖神(耳の神様)天神様(学問の神)お諏訪(商売の神様)与力与直(鎮世)浅間神社(富士信仰)が有るが、これは大正年間の区割整理の為村内に散在した神社を遷座したものである。現在ある宮神輿は大中二基であるがお御神輿は皇紀二千六百年を記念し行徳の浅子周慶氏に依頼したもので、当村旧家中村勝五郎氏と浅子周慶氏ごの特殊関係から氏子の浄財に倍する作品を得たもので神恩のしからしむ所と氏子一同感激した作品となった。又、中神輿は文久二年(今から百三十六年前)神田平永神輿師村田惣吉、寅吉の合作である。当時江戸では将軍直許の二十数基の神輿のみといわれていた時代で、当社にこの神輿が存在したことは異例のことであった。
尚太鼓山車上の神像は天皇初代の神武天皇様のお姿である。
昭和五十六年十月四日
記 神明社
右の記述は氏子総代 山田 不二男氏に依る

神明神社案内板による

鬼越山神明寺

鬼越山神明寺と大師像鬼越山神明寺本殿
小栗判官駒繋銀杏案内板小栗判官駒繋銀杏全景
京成鬼越駅東詰の踏切の南側に真言宗豊山派鬼越山神明寺はあります。東に小さな門を開き、正面の弘法大師像が印象的。山門の南には「小栗判官馬つなぎの銀杏」と名付けられた樹齢700年の大銀杏。また正面、弘法大師像の後ろの本殿下に、「小栗判官厄除出世不動」の説明板があります。
神明寺は、大銀杏と小栗判官伝説にまつわる、歴史ある寺院です。
千葉県市川市鬼越(京成鬼越駅周辺)江戸以前には、下総の国葛飾郡鬼越村と呼ばれた地域です。鬼越の地名の由来は種々ありますが、治承4年(1180)源頼朝公が上総から下総国府に向かう途中、従者の東胤頼が「小夜深く鬼のしこ草踏み越えて行へ言問う真間の浦人」詠んだと伝えられています。この中の「鬼のしこ草踏み越えて」から鬼越となったとも言われています。
すぐ東に鹿島海道と呼ばれていた現木下街道。また1キロほど東に二子町という地域があり、鎌倉時代には海がこの地まで入り込み二子浦と呼ばれていた船着き場もあったそうです。日蓮宗開祖日蓮はこの浦から中山法華経寺と鎌倉の往復をしていたそうです。また、木下街道を北東へ2キロ進むと、吉川栄治の宮本武蔵に描かれている法典が原の地もあります。松尾芭蕉も鹿島詣でに江戸から行徳に渡り、鹿島街道(木下街道)を進みました。徳川家康による利根川の東遷以前、荒川、渡良瀬川、利根川の膨大な水量の河川により現在とはかなり異なる街道が使われていたのかもしれません。そして江戸から常陸の国や東北へはもしかしたらこの鹿島街道を使っていたのかもしれません。源頼朝、宮本武蔵、日蓮、松尾芭蕉が往来したように、小栗判官といわれる武将、小栗満重や助重もこの道を使って所領である常陸の国小栗と鎌倉の往復にしていたのでしょう。それがこの鬼越に小栗判官伝説となって残っているのでしょう。
神明寺の南500mほどの所に判官池と呼ばれる池が昔はあったそうです。そして東に1キロ二子町の手前には船橋市立小栗原小学校があり、以前この地が小栗原と呼ばれていたことを今に伝えています。
小栗判官伝説にちなんでつけられた地名なのか、それとも事実小栗判官がこの地に来ていたのか、想像力をかきたてられます。

小栗判官伝説

鬼越の小栗判官伝説

神明寺の縁起に伝わる小栗判官伝説によれば、室町幕府第6代将軍足利義教の時代、鎌倉公方足利持氏は一色氏と山名氏の讒言により、鎌倉稲村ケ崎の小栗判官の館を襲撃しました。
小栗判官と父親は、故郷の常陸の国に落ちのびる際、父親とはぐれてしまいました。そして下総国葛飾郡に差し掛かったところ、闇夜の為、愛馬栗鹿毛と共に大きな沼にはまってしまい、小栗判官は進退窮まり、自刃しようとしました。そこでいつも肌身離さず持っていたお守りの不動妙王像を懐から出し、自身の命とひきかえに一族一門の発展を祈りました。祈りを終え目を開けると目の前が明るく輝き、沼から抜け出す道が見えました。そこで小栗判官は不動明王の御利益と考え像を懐にしまい、愛馬鬼鹿毛に飛び乗り、仏が示した道を進むことで死地を脱することがたのです。
小栗判官一行が沼を渡り切っり、追っ手を振り切ったところで、湧き水で身を清めました。信仰心の篤い小栗判官は死地を救ってくれたお不動様へのお礼の為、近くの寺を尋ねました。鬼鹿毛を山門脇の銀杏の木に繋ぎ、寺の本堂へ向かったところ、住職が出てきて、お不動様のお告げについて話し、そして小栗判官の命を救った不動明王像にお経をあげてくれました。小栗判官は、自分たちを導き難局から救ってくれた不動明王像に、毎日お経をあげてくれるよう寺に託し、常陸の国に帰ってゆきました。それが鬼越山神明寺に安置された、「小栗判官厄除出世不動」と伝えられています。また、愛馬「鬼鹿毛」をつないだ銀杏の木が、今も残る大銀杏「小栗判官つなぎ銀杏」です。
鬼越の地名は、小栗判官の愛馬「鬼鹿毛」が越えたことからとも言われています。


小栗判官伝説

小栗判官伝説は説教節「小栗」や浄瑠璃「小栗判官」(近松門左衛門)「小栗判官車街道」(文耕堂ら)として知られる説話です。応永30年(1423)の小栗の乱の事跡と時宗藤沢寺の説話を元に創作された物語。

常陸の国小栗(茨城県筑西市)は、元々は伊勢皇太神宮(伊勢神宮)の神領で御厨と呼ばれた荘園です。そしてその荘園の荘官(管理職)を代々世襲していたのが、常陸平氏一族大掾氏の庶家の小栗氏でした。
小栗氏は室町時代には京都扶持持衆(幕府直属の豪族)であり、関東にありながら鎌倉公方とは対立する立場にありました。上杉禅秀の乱(1414)の際、上杉方に与力したことにより小栗氏はその所領の多くを奪われ、その不満から応永30年に鎌倉公方に対して反乱(小栗の乱)を起こしました。結果、第十四代当主小栗判官満重(判官は当時の官位で現在の警察)は鎌倉公方足利持氏の大群にに攻められ、満重は自刃(一説には満重が生きのび小栗判官説話のモデルとも言われる)小栗城は落城しました。
満重の子(一説には弟)、小栗助重は城を捨て、幾多の合戦を共に戦った家臣十名(小栗十勇士)と共に一族のいる三河国(愛知県東部)に逃げる事にしました。(一説によると三河小栗氏は常陸小栗氏がこの時三河に土着したものとあり、一族がこの当時三河あったことは不確かです。)三河に落ちのびる途中、相模国藤沢(神奈川県藤沢市)で横山大膳という豪族の家に泊まりました。この横山は実は盗賊で、助重の首を狙い、この時毒殺しようとしましたが、娘(遊女という説もある)の照手姫は助重と恋仲となり、父の策略を知り、助重を助けようと宴席で舞を舞いながら同じ歌を繰り返し歌って、酒に毒が入っていることを助重や家臣に伝えようとしました。しかし助重も彼の家臣も彼女の舞の意味に気づかず、毒の入った酒を飲んでしまい命を落としました。横山大膳は助重等の死体を捨て、金品を奪いました。しかし助重だけは虫の息で生きており、遺棄された場所で僧侶(藤沢の遊行上人?)に助けられ、手厚い看病を受ました。
そして助重と夫婦になる約束までしていた照手姫は父横山大膳の所業を嘆き悲しみ家を出ました。しかし、父の追っ手に捕らえられて身ぐるみ剥がされた末無一文で追い出され、仕方なく下女として食をつないでいました。
身体が回復すると助重は自分の所領である常陸の国小栗に戻り再起を果たし、裏切者の横山大膳を討ち倒し、下女になっていた照手姫を見つけて、約束どおり夫婦になり、幸せに暮らしたという。

この内容に、出生譚等様々な脚色が盛り込まれ、紹介されています。また、小栗判官の回復には、特に熊野権現の霊験と温泉の効果があったそうです。
また、史実として小栗の乱のおよそ20年後に、小栗氏は一時所領を回復しています。


小栗判官(小栗助重・満重)

伝説上の人物。常陸の国小栗城の城主、小栗助重をモデルとして創作された説話や浄瑠璃の主人公。助重の父、満重がモデルという説もあります。

小栗満重、助重父子が属する常陸小栗氏は、坂東平氏(桓武平氏)繁盛流の氏族である大掾氏の庶流。
満重の父基重は鎌倉公方に仕えたが、満重は京都扶持衆であり、鎌倉公方・足利持氏に反旗を挙げ、持氏の討伐軍の撃退に成功する。その後の上杉禅秀の乱でも満重は上杉方に与して持氏に反抗するが、敗北して降伏。持氏に所領の大半を没収された。それを恨み再び反乱(小栗の乱)を起こすが、持氏自ら率いた大群に鎮圧にされる。敗れた満重は自刃した。
その後は満重の子助重(弟説もある)が永享12年(1440)結城合戦で武功を挙げ旧領を回復するが、享徳の乱を通じて小栗氏は劣勢に立たされ、1455年には持氏の遺児・足利成氏の攻撃を受けてついにその本貫地である小栗御厨(茨城県筑西市)を失う。その後助重はそのまま出家して、宗湛入道と号し足利将軍家に仕えた。絵をよくし、当代の一人者と称せられた。
小栗判官のモデルは、父満重とも子助重とも言われています。
また、常陸小栗氏の子孫は三河に土着し、三河小栗氏となったともいわれています。


参考
市川市ホームページ
神明社案内板
鬼越山神明寺案内板
市川よみうり(2012年11月10日号)
市川のむかしばなし改訂新版
筑西市観光協会ホームページ
ブリタニカ国際大百科事典
大辞泉
ウィッキペディア

神明社と鬼越山神明寺への交通案内と地図

  • 京成本線「鬼越駅」徒歩2分
  • 鬼越山神明寺:市川市鬼越1-11-8
  • 神明神社:市川市鬼越1-26-18

伝説と歴史ある銀杏の木

市川市には葛飾八幡宮の国指定天然記念物「千本公孫樹」の他にも公孫樹の大木がいくつもあります。なかでも中山法華経寺の日常上人とその息子で真間山弘法寺の日頂上人の哀しい物語の伝わる「泣き銀杏」と鬼越山神明寺の「小栗判官馬つなぎ銀杏」は有名です。いずれも樹齢700年以上の巨木です。
秋の千本公孫樹社殿越し

葛飾八幡宮 千本公孫樹

下総国総鎮守葛飾八幡宮には、国指定天然記念物の千本公孫樹のほか、銀杏並木に映える随神門や源頼朝こまどめの石などがあります。
法華経寺五重塔と泣き銀杏

中山法華経寺 泣き公孫樹杏

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桜のお花見の名所として知られる中山法華経寺。国指定の重要文化財が複数ある博物館のような古刹。