日蓮宗本山真間山弘法寺 行基・弘法大師ゆかりの古刹
真間山弘法寺は、
行基菩薩または弘法大師空海による創建との伝えのある1300年以上の長い歴史と由緒ある市川市真間にある古刹。葛飾誌略によると、弘法大師が真間の地を訪れた際に建立したとあります。鎌倉時代後期に日蓮宗にあらため、六老僧の一人日頂上人により整備され現在に至りました。真間山弘法寺仁王門の扁額は弘法大師空海筆、仁王像は運慶作ともいわれています。戦国時代には下総の守護大名千葉氏からの寄進や、太田道灌は遍覧亭と後に呼ばれた茶室を造営するなど発展しました。江戸時代の真間山弘法寺の楓の巨木は有名で、紅葉の名所として知られて、若葉や紅葉の時期には沢山の人がいたそうです。徳川八代将軍吉宗公をはじめ、水戸黄門で知られる水戸光圀公や小林一茶なども立ち寄るなど人気の観光スポットでした。江戸名所図会などにも、真間山弘法寺の茶室「遍覧亭」から富士山を背景に江戸城、上野も見え、江戸川を行き来する多くの船の帆が美しく色を添えるほど眺望がよいと紹介されていました。今では遍覧亭は失われ、高層ビルが立ち並び、遠くはあまり見えませんが、市内を見渡すことができます。万葉の昔から多くの歌人に親しまれた下総国葛飾郡真間の地の中心に建つ真間山弘法寺。そしてまた、当時の真間山弘法寺につながる大門通は松並木に彩られていたそうです。公方様も黄門様も、美しい松並木を抜け、高い石段の上から富士山を借景にした江戸の街並みを眺めたのでしょう。
現在では桜の名所として知られ、春には樹齢400年お越える伏姫桜とよばれる古木枝垂桜を見に多くの人々が訪れます。そして今でも秋の真間山弘法寺の紅葉が美しいです。
真間山弘法寺縁起
真間山弘法寺
真間山弘法寺は、略縁起によると、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりであり、その後平安時代、弘法大師(空海)が七堂を構えて「真間山弘法寺」とし、さらにその後天台宗に転じたとされる。
真間の地は、かつてはすぐ北に六所神社があり、国府が設置されていた古代以来の下総の国の中心地であった。そのためここに古くから寺院があった可能性は高く、本来は国府と密接にかかわる寺院であったとの推測もある。
鎌倉時代、この地に及んだ日蓮の布教をうけて、建治元年(1275)、時の住持了性が日蓮の弟子で中山法華経寺の開祖日常と問答の末やぶれ、日蓮宗に転じ、日常の子で六老僧の一人日頂を初代の貫主としたと伝える。
鎌倉末期の元亨3年(1323)には千葉胤貞により寺領の寄進を受け、延文3年(1358)の日樹置文によれば葛飾郡一帯や千田庄(多古町)に多くの寺領や信徒を擁していたことが知られる。また室町・戦国時代には山下に真間宿または市川宿といわれる門前町が発展し、賑わいをみせていた。
天正19年(1591)、徳川家康より朱印地30石を与えられ、元禄8年(1695)には水戸光圀も来訪したと言われる。
江戸時代は紅葉の名所としいて知られ、諸書に真間山弘法寺の紅葉狩りことが記されているが、明治21年(1888)の火災のため諸堂は焼失してしまった。その後明治23年(1890)に再建され、現在に至っている。
境内には、日蓮の真刻と伝えられる大黒天をまつる太刀大黒尊天堂、水戸光圀が賞賛して名づけたといわれる遍覧亭跡、袴腰の鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。
平成18年3月
市川市教育委員会
真間山弘法寺仁王門前案内板より
抜粋・引用および参考
真間山弘法寺ホームページ
市川市ホームページ
真間山弘法寺内案内板
改訂新版「市川のむかし話」
新訂「江戸名所図会6」ちくま学芸文庫
房総叢書 紀元二千六百年記念 第8卷葛飾紀
房総叢書 紀元二千六百年記念 第6卷葛飾誌略
ウィッキペディア
桜の名所 真間山弘法寺のスライドショー動画