葛飾八幡宮参道 川上善六翁遺徳碑と中央公民館
葛飾八幡宮参道に、大きな石碑があります。 市川を梨の一大産地にすることに生涯を捧げた
川上善六翁の遺徳碑です。今でこそ市川は梨の産地ですが、江戸時代中頃までは砂地で農業に適さない土地だったそうです。川上善六翁による、この土地での梨栽培は見事に成功し、江戸名所図会にも「真間より八幡に行く道の間にあり。二月の花盛りは雪を斯くに似たり。李太白の詩に、「梨花白雪香ばし」と賦したるも諾なりかし」と八幡の梨園を紹介しています。また、作家平岩弓枝の「江戸の精霊流し」の中にも八幡の梨畑と川上善六翁についての一文があります。
秋に黄金色の葛飾八幡宮の参道を歩き、千本公孫樹を仰ぎ見て、川上善六翁の遺徳碑を見てからみずみずしい
市川梨を食べる、八幡の素敵な散歩道です。
※ 葛飾八幡宮周辺施設は、現在建設工事の行われているため、一部画像と異なる場合があります。画像は建設工事前のものも交じっておりいます。
川上善六翁遺徳碑
梨は市川市の特産品です。市川市北東部から西に松戸市、東は鎌ヶ谷市につながる国道464号線の一部は大町梨街道と呼ばれる地域のある市川市東北部の台地上で主に栽培されています。幸水、豊水、あきづき、新高と8月から10月にかけてみずみずしい梨が収穫されます。市川梨その起こりは「八幡梨」といって、明和7年(1770)八幡の川上善六翁によって始められたものです。
八幡の土地、元亨の梵鐘の銘文によると、鎌倉時代には八幡様の目の前に海があったそうです。そのため八幡の土地は砂地であるため農業に適さず、周辺の農家の生活は楽ではありませんでした。川上善六翁は寛保2年(1742)1月に八幡に生まれました。善六はなんとかこの土地に適した作物を作りたいと、日夜頭を悩ませていました。そんなある日、梨が砂地に適していることを知りました。そこで、善六は梨栽培を始めましたが、なかなかうまくゆきません。そこで、当時梨栽培の盛んな美濃国(岐阜県)に行って栽培方法を研究しました。そして良種な接穂(つぎほ)を持ち帰り、八幡宮境内で栽培に成功しました。こののち善六は品種改良に努め、良質の梨を作り出すことができました。善六は梨栽培を周辺の農家に勧め、「八幡梨」として売り出したのです。そしていつしか八幡梨の名は江戸をはじめ近郷に知られるようになりました。江戸名所図会にも、梨栽培の様子が描かれています。
今では、八幡周辺には梨畑はなくなってしまいましたが、周辺に広まって行き、市川をはじめ東葛地域は梨の一大生産地になりました。八幡梨も「市川梨」と呼ばれ、日本全国に送られる、市川市の特産品です。
川上善六は、祖父や父への孝養と梨栽培の振興により代官から褒美を受けています。また、善六は孟慶と号すなど知識人として知られていました。文政12年(1829)8月、川上善六翁は87年の生涯をおえました。人々に梨祖(りそ)と仰がれた善六の偉業を称え、大正4年に「川上善六遺徳碑」が八幡宮境内に建てられ、今日に伝えています。
中央公民館
市川市中央公民館建物
八幡様にお参りした帰り道、参道を見渡すと和風の立派な建物が目に入ります。一見、地方の老舗温泉旅館かと思うような入母屋造の軒をもつこの建物、市川市中央公民館なのです。市川市のホームページによると、新潟県柏崎市大久保の小熊容徳氏(旧国鉄信越地区自動車局長)邸宅を昭和26年に解体運搬し、昭和27年5月5日に市川市に移築し、市川市公民館として開館したそうです。小熊家は江戸時代時代からつづく庄屋で、この建物は新潟県令だった容徳氏の祖父六郎氏が明治初年に建築したこのものです。小高い丘の広大な敷地に建てられ、建物に使用されていた木材は十年枯らしの材料が使われています。柏崎海岸の御野立公園の巡幸碑によると、明治10年に明治天皇が北陸巡幸の際、大広間にお泊りになったということです。その後、明治の元勳徳大寺公爵や山県有朋なども訪れたという由緒ある建物です。建物の老朽化に伴い平成2年に改築が行われましたが、玄関・ロビーは昔のままの姿を残しています。
静かな佇まいの純和風の建築物は、葛飾八幡宮の参道に溶け込んだ素敵な建物です。
引用、抜粋並びに参考
葛飾八幡宮内御由緒書
葛飾八幡宮内川上善六翁遺徳碑案内板
市川市ホームページ
市川市市立図書館ホームページ
江戸名所図会6 ちくま学芸文庫
房総叢書 紀元二千六百年記念 第8卷葛飾紀
房総叢書 紀元二千六百年記念 第6卷葛飾誌略
改訂新版市川のむかし話
大町梨街道ホームページ
ウィッキペディア
葛飾八幡宮への交通案内と所在地
葛飾八幡宮の最寄り駅と住所
- JR総武線・都営地下鉄新宿線「本八幡駅」徒歩10分
- 京成本線「京成八幡駅」徒歩5分
- 千葉県市川市八幡4−2−1
下総国総鎮守葛飾八幡宮境内の観光名所
川上翁遺徳碑と中央公民館建物