野菊の墓文学碑と国府台の古戦場址
江戸川河川敷から田圃のあぜ道の奥の崖の上に
野菊苑という小さな公園があります。政夫と民子の淡い恋物語を描いた
伊藤佐千夫の
小説「野菊の墓」の舞台です。物語はじめの情景描写の中で、政夫が民子を待った大きな銀杏の樹は、野菊の墓文学碑の置かれる西蓮寺の入口の脇にあったそうです。きっと政夫と民子はここから遠くの空を眺めたのでしょう。
また、野菊苑の前の坂道は戦国大名小田原北条氏と安房の里見氏が争った
第二次国府台合戦の激戦地です。西蓮寺の石段脇に「史跡永禄古戦場址」と彫られた丸木の案内もあります。そして野菊苑には松戸市矢切地区の開発に尽力した
渋谷金蔵氏の銅像などもあります。
春は桜に包まれる野菊苑と野菊の墓文学碑のある西蓮寺は、長い歴史と文学のロマンあふれる散歩道です。
野菊の墓文学碑
野菊の墓文学碑は松戸市下矢切の西蓮寺の境内に置かれている大きな石碑です。この文学碑には、野菊の墓の作者伊藤佐千夫の弟子で文学者で国学者の土屋文明氏の筆により、同小説の冒頭部分が書かれています。
そして西蓮寺の入口脇にこの中に描かれている「民子を待った」大きな銀杏の木があったそうです。
野菊の墓文学碑
僕の家といふのは、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云っている所。崖の上になっているので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一ゑんが見渡される。秩父から足柄箱根の山々、富士の高嶺も見える。東京の上野の森だと云ふのもそれらしく見える。
村はずれの坂の降口の大きな銀杏の樹の根で民子の来るのを待った。こゝから見下ろすと少しの田圃がある。色よく黄ばんだ晩稲に露をおんでシットリと打伏した光景は、気のせゐか殊に清々しく、駒のすくような眺めである。
伊藤佐千夫著 野菊の墓より
昭和39年10月
門人 土屋文明織
野菊の墓文学碑より
伊藤佐千夫 元治元年〜大正2年(1864〜1913)
上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家に生れる。本名は幸次郎。明治時代の歌人。明治法律学校(現・明治大学)に入学するが眼病を患い中退する。後再び上京し本所(墨田区)で搾乳業を営む。『歌よみに与ふる書』に感化され、正岡子規に師事し短歌を学ぶ。万葉調の和歌を作る。短歌の生命を「叫び」にあると主張。子規の死後、根岸短歌会系歌人を継承し、「馬酔木」「アララギ」を創刊、のちアララギ派の重鎮として活躍。子規の短歌革新の業は左千夫によって達成されたといわれる。島木赤彦、斎藤茂吉、土屋文明はその門下。主著に「佐千夫歌集」などがあり、小説「野菊の墓」は有名。
出典・抜粋・引用および参考
野菊の墓文学碑
野菊の墓
山武市公式ホームページ
松戸市ホームページ
江戸川ライン歴史散歩 崙書房
大辞林
新制版 日本史辞典
日本世界 人名辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
ウィッキペディア
伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の舞台であり野菊の墓文学碑が置かれている西蓮寺と野菊苑にはたくさんの桜の木々が植えられ、春満開の頃、坂の下から、また西蓮寺と野菊苑を結ぶ陸橋からの眺めは壮観です。また、少し離れたところに、松戸市と市川市に水を供給する栗山浄水場にも桜が植えられています。浄水場施設内に入ることはできませんが、外からゆっくりと桜を眺めてバス停までの道を楽しめます。
第二次国府台合戦古戦場址
この江戸川東岸の下総台地の南端、国府台の地では、2度にわたり
国府台の合戦と呼ばれる大規模な戦闘が戦われました。西蓮寺の入口の石段の脇に建つ丸木の案内板に「史跡永禄古戦場址永禄7年正月7日打死1千人」とあります。これは永禄7年に小田原北条氏と安房の里見氏とで争われた、第二次国府台合戦の初戦がこの坂で起こったことを伝えるものです。階段を上った正面には、国府台の合戦についての詳細な内容の書かれた案内板もあります。
この地で繰り広げられた第二次国府台合戦の初戦は、永禄7年正月7日(1564年1月7日)北条方の将、遠山氏と富永氏が戦端を切り奮戦したが敗れました。翌朝北条方は、前日の大勝利に油断していた里見方を奇襲し、最終的な勝利を得ました。
眼下に江戸川の河川敷、そしてその奥に、おそらく遠く江戸城も見えたであろう、この急坂で戦国時代南関東の支配権を決する大きな戦あったことを今に伝えています。
出典・抜粋・引用および参考
西蓮寺境内案内板
松戸市ホームページ
市川市ホームページ
里見公園内案内板
江戸川区ホームページ
江戸名所図会6 ちくま学芸文庫
戦略戦術兵器辞典 学研
クロニック戦国全史 講談社
江戸川ライン歴史散歩 崙書房
新編 市川歴史探訪 崙書房
ウィッキペディア
野菊苑内には矢切の地の開発に尽力した渋谷金蔵氏の銅像と水道記念碑が置かれています。近くに栗山浄水場があることに、なにかつながりがあるのではと想像が膨らみます。伊藤佐千夫と同じく元治元年生まれの渋谷金蔵の銅像が置かれていることにも不思議な縁を感じることができます。
渋谷金蔵
翁は元治元年下矢切に生れ、資性温厚愛郷の志固く明治41年有志と相謀り排水機を設置し矢切郷開発以来の水災を除きたり。爾来実に30有余年孜々として一日の如く土地改良に盡摩せられ、昭和7年県耕地協会より、又昭和13年帝国耕地協会より表彰せらる昭和一年有志相謀り翁の銅像を建設せしが、大東亜戦争の為応召せらる。今回翁の功績を稱へ是を再建してその功徳を不朽に伝へしとす。
昭和29年6月
矢切土地改良区理事長齋藤喜三治書
渋谷金蔵翁銅像記裏案内版より
出典・抜粋・引用および参考
渋谷金蔵翁銅像記裏案内版
野菊の墓文学碑のある西蓮寺と野菊苑の最寄り駅と住所
- 北総開発鉄道「矢切駅」より徒歩8分
- 千葉県松戸市下矢切261
野菊の墓文学碑と国府台の古戦場址近くの観光名所 ご案内
東京と千葉の境を流れる江戸川。河川敷は流域にすむ人々の散歩道。江戸時代は水運の大動脈でした。
東京を東から一望できる展望施設。富士山と東京スカイツリーを眺める最高のビュースポット。
北原白秋旧宅、弘法大師伝説のある羅漢の井、夜泣き石ほか四季折々の表情を見せる素敵な散歩道。
江戸時代、徳川幕府より10万石の大名と同等の格式を認められていた曹洞宗の寺院。
国指定天然記念物「影向の松」で有名な室町時代創建の古刹。。
姫宮と茶室「登龍庵」のある梅と紅葉の名所である自然豊かな公園。
高い評価受けた現代建築の本堂と石庭と竹林、カフェもある名刹。
野菊の墓文学碑
野菊の墓の舞台と第二次国府台合戦の激戦地でもある野菊苑と西蓮寺。