花見の名所里見公園は戦国時代の城の国府台城跡
里見公園は千葉県市川市の国府台と呼ばれる台地の上にある広さ82ヘクタールの市立公園です。公園の南の西洋式庭園には、桜やバラが植えられ、多くのお花見を楽しむ人々で賑わいます。また、園内からは江戸川を越しに東京スカイツリーなど東京の街並みや、遠く富士山も望める風光明媚な公園です。里見公園内に、弘法大師が発見したという井戸「羅漢の井」、北原白秋旧宅である「紫烟草舎」や国府台城跡の土塁などの残る北側の自然林の中に明戸古墳石棺なども保存されており、四季折々の自然や花々だけでなく、歴史や文化も楽しめる公園です。
里見公園
里見公園の沿革
里見公園は国府台と呼ばれる江戸川に面した下総台地の西端の丘の上に開かれた広さ82ヘクタールの市川市立の公園です。
現在里見公園のある地域には古墳なども発掘され、古代には下総国国府が置かれ、近くに下総国国分寺も建立されるなど政治と文化の中心でした。また、徳川家康による利根川東遷以前には、現在の江戸川には渡良瀬川が流れ、利根川の本流も東京湾に向かって流れており、里見公園のある下総台地西端より西は遠く隅田川の西側の岸まで低地が広がり、戦略上も重要な地域でした。
鎌倉時代には、義経記や江戸名所図会によると、この国府台の台地上のどこかに市川城が築かれていたようです。そして戦国時代のはじめに、太田道灌により
国府台城が築かれました。その後、天文7年(1538)と永禄7年(1564)の2回の
国府台の合戦が勃発し、この地は戦国大名北条氏の支配をうけることとなりました。
戦国時代末期、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐により、北条氏は滅び徳川家康の江戸入城となり、徳川氏が関東を治めることになり、国府台城は江戸城を見下ろす地にあることで危険とされ廃城となりました。
江戸時代には江戸川は利根川とつながっていることから、北関東や東北から江戸に多くの物資が運ばれる大動脈となり、川筋の地域は栄え、その様子は歌川広重の名所江戸百景に描かれ、江戸名所図会にも紹介されています。
明治から終戦まで国府台は軍隊の街として栄え、一部は、里見八景園という遊園地もありました。
昭和34年に市川市は里見公園のある地は戦国時代の城国府台城の跡としてまた国府台の古戦場の地であることから、歴史と文化を記念して里見公園を開設しました。
国府台城跡
国府台城跡
里見公園の奥に広がる自然林を歩いていると石垣や漬物石よろも大きな石が散乱している窪地があります。このように土手状に土を積み上げ土塁の跡がそこかしこに見られます。戦国時代以前にあった国府台城の城跡です。国府台城は「市河城」「鴻之台城」とも伝えれられています。尚、市河城については現在の
真間山弘法寺付近にあったとも伝えられています。
国府台城について、江戸名所図会には、昔、千葉氏一族の国府氏の居城があり、慶長年間に廃城になったと伝えられています。その後室町時代の文明11年(1479)に、川越城、江戸城を築いたことで有名な名将太田道灌がこの国府台城を築いたと伝えられています。里見公園内、つまり国府台城の郭内には、市川市最高地点もあり、この高台の西側からは今でも遠く東京の摩天楼をうっすらと見ることができます。1キロほど東南にある真間山弘法寺の茶室から江戸城を望むことができたと江戸名所図会に書かれていることから、江戸時代以前の眺望が想像できます。つまり、この国府台の高台は東葛と葛西一帯を一望にすることができる地でした。また、徳川家康の利根川東遷以前は、利根川と渡良瀬川が河道も定まることなくこの高台の西を流れ、南は真間の入り江と呼ばれる入江の広がる護るに容易な要害の地でもありました。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の後、徳川家康が関東に入り、江戸城を新たな居城とした際に、家康は江戸城をにらむ地に建つ国府台城を嫌い、廃城としたそうです。
里見公園周辺は、戦国時代に里見氏などの房総勢力と小田原の北条氏が二度も戦った国府台の古戦場跡です。 北に隣接する松戸市、江戸川をはさんだ江戸川区や葛飾区にも国府台合戦の史跡や伝承が残っています。
第一次国府台合戦天文 7年(1538)
第一次国府台の合戦は、天文 7年(1538)10月、関東の盟主の座をめぐり古河公方足利晴氏と対立していた小弓公方(千葉市)足利義明は、古河公方方の小田原北条氏を攻めるために、安房の里見義堯、上総の酒井定治や武田信応ら房総の兵を集め、国府台城に布陣しました。
北条氏の当主氏綱は、小弓公方方の情報に知り、すぐさま息子の氏康と江戸城に入り、翌日国府台へと出陣しました。
10月7日早朝、小弓公方と里見氏の連合軍は北条氏と激突。北条氏が勝利をおさめた。江戸川(当時は太日川)沿岸に着くや、大将である氏綱自らから先陣をつとめ、兵を三隊に分けて河を渡り、手薄な相模台(現松戸市)方面から南下し、国府台城を攻め落としました。
この合戦で、小弓公方足利義明と息子の義純、弟の基頼、逸見祥仙などの重臣をはじめ140人が討ち死にし、里見義堯は小弓城を焼き、安房国に逃れました。
この戦の結果、関東公方の権威は古河公方に統一され、この功績により北条氏は古河公方の外戚となり関東管領に補任され、下総千葉氏や上総武田氏なども北条氏に従うこととなり、この後北条氏の関東で勢力を拡大につながりました。また、里見氏も小弓公方方の大多喜城や久留里城を治め、上総に勢力を拡大した。
第二次国府台合戦(1564年)
第二次国府台合戦は第一次国府台合戦から26年後の永禄7年(1564)1月、北条氏の房総侵攻を阻む里見義堯の息子義弘は、越後の上杉謙信と連携し、岩槻城主太田資正や北条氏の属していた太田康資らを誘い、北条氏を南北から挟み撃ちにするため、国府台に陣を構えました。
千葉氏からの知らせをうけ、北条氏 康と長男氏政は2万の大軍を率いて1月7日早朝に江戸川川岸に到着しました。戦端は北条氏の武将、遠山綱影・富永政家らにより開かれました。遠山らは、浅瀬より江戸川を渡り里見・太田氏の連合軍を攻めましたが、両氏は討ち死に、北条綱成の奮戦もむなしく、北条勢は退きました。
この勝利を喜び、里見・太田氏は兵に酒をふるまっていた。この連合軍の油断に乗じて、北条氏康は8日未明に奇襲を仕掛け、里見・太田勢は大混乱に陥り、里見勢は安房に逃れ、太田氏も敗走し、北条氏の大勝利となりました。
この第二次国府台合戦の結果、江戸一帯は太田康資の支配から北条氏の支配に移り、北条氏の勢力は下総のみならず、上総にもおよぶこととなりました。これ以降、北条氏は江戸を拠点として北関東に攻勢を強めてゆくこととなりました。
抜粋・引用および参考
市川市ホームページ
里見公園内案内板
江戸川区ホームページ
江戸名所図会6 ちくま学芸文庫
戦略戦術兵器辞典 学研
クロニック戦国全史 講談社
新編 市川歴史探訪 崙書房
ウィッキペディア
里見公園の最寄り駅と住所
- 京成本線「国府台駅」徒歩10分
- 北総開発鉄道「矢切駅」より徒歩10分
- 千葉県市川市国府台3-9
里見公園と周辺にある観光名所 ご案内
里見公園(国府台城跡)
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