明治の俳人で歌人正岡子規ゆかりの散歩道
明治時代の俳人・歌人
正岡子規。伊藤佐千夫の師であり、その関係でしょうか、それとも総武鉄道(総武本線)の本所〜佐倉区間がが明治27年12月(1894)に開通して物珍しく、下総の国に関心をもったのでしょうか、それとも高浜虚子が写生文集の中山寺で言っている通り「日蓮好き」のためでしょうか、中山法華経寺、葛飾八幡宮、八幡のやぶしらず、真間山弘法寺、船橋大神宮などを訪れています。
正岡子規の旅の様子は彼の文学の中に残っています。江戸川を越えてすぐの国府台については「石くぼむ床几の跡や苔の花」(全集1巻p324)や「兵営や霜に荒れたる鴻の臺」(全集2巻p320)の句のほかに漢詩もあります。先の句は国府台城址である里見公園をあらわしているのでしょうか、後の句は軍隊の街と呼ばれた当時の国府台の様子を伝えています。
正岡子規の句などから、当時は自然が豊かで、高い建物もないので、総武線の車窓からでも製塩業者がおこす煙も見えていたようです。鉄橋を越えて、市川でご飯を食べ、菅笠を買ったなどのとも書かれていて、当時の市川の様子だけでなく、明治という時代の旅の様子も垣間見ることができます。
このページでは、明治の俳人で歌人の正岡子規が句や詩を作った名所や訪れた寺社をご紹介しています。
引用・抜粋および参考
市川市立図書館ホームページ
子規全集 講談社
ウィッキペデディア
正岡子規
慶応3年9月17日(1867)〜明治35年9月19日(1902)
俳人・歌人、愛媛県松山市に生まれる。本名は正岡常規、別号獺祭書屋主人・竹乃里人。
1892年東京大学文学科を中退。新聞「日本」に入社。同紙に拠って俳句革新運動ののろしを上げ、「獺祭書屋俳話」を連載。「文界やつあたり」(1893)、「俳諧大要」(1895)などを書く一方、「歌よみに与ふる書」(1898)以後、根岸短歌会を結成して短歌革新に力を尽くした。俳句、短歌ともに写生(写実)を旨とする文学であることを主張。俳句では内藤鳴雪、佐藤紅緑、河東碧悟桐、
高浜虚子ら、短歌では香取秀真、岡麓、
伊東左千夫、長塚節らの俊秀を育て、俳句確信に着手し、俳誌「ホトトギス」により活動し、のちの「ホトトギス」派、「アララギ」派の礎を築いた。句集「寒山落木」、歌集「竹乃里歌」、随筆「墨汁一滴」(1901)、「病牀六尺」(1902)、日記「仰臥漫録」(1901〜1902)など。
高浜虚子の写生文集「中山寺」に、正岡子規は「日蓮好き」と書かれている。
参考
ブリタニカ国際大百科事典
デジタル大辞林
正岡子規ゆかりの観光名所 ご案内
子規が食事をした市川駅にある東京が一望できる展望施設。
万葉集に登場する橋。その後、多くの短歌に詠われた名所。
手児奈が身を投げたと伝えられている「真間の井」のある寺院。