正中山法華経寺|室町・江戸・近代、仏教建築の博物館のような古刹
日蓮宗大本山正中山法華経寺を初めて訪れる人の多くは感嘆の声を上げます。市川市と船橋市の市境の地、「急行も快速も止まらない中山に、こんなに大きな寺院があるなんて!」です。中山は現在東京のベッドタウンと表現されていますが、元々は法華経寺の門前町として、二子浦と呼ばれた湊と、千葉街道(佐倉道)と木下街道(鹿島道)の交差する交通の要衝として室町時代や江戸時代には発展していました。
法華経寺は中山の地にあることから、地元はもちろんのこと、多くの人から中山法華経寺と呼ばれ親しまれています。
それでは、中山の駅から道々に法華経寺見どころを紹介してゆきましょう。
JR総武線「下総中山駅」から駅前を北に向かう道を進み、国道14号線を越えて京成電鉄「京成中山駅」の脇の踏切を過ぎるとまず、市指定文化財
中山法華経寺の総門、江戸時代に建てられた通称黒門があります。そして参道の上には、赤門と呼ばれている
仁王門が青空を背景に眼前に聳え立ちます。仁王門を抜けると200メートル程続く参道の両脇には
桜並木と
塔頭寺院が立ち並び、その先には
国指定重要文化財の五重塔が正面に見えてきます。参道の先の小さな龍渕橋を渡ると、左手に屋根が二つ並んでいるような比翼入母屋造りの大堂、
国指定重要文化財祖師堂が視界いっぱいに広がります。祖師堂後ろの丘の中央手前には
四足門、そしてその後ろにの
法華堂と共に室町時代の建築で国指定重要文化財に指定されています。法華堂の左隣の
刹堂は江戸時代の蔵のような造りの建築物です。次に、祖師堂北、五重塔の隣には千葉県で一番大きな
大仏があります。また、道の正面に宝殿門、その奥の森の中の道を進むと大正から昭和にかけて活躍した建築家伊藤忠太作の
聖教殿が凛と鎮まった森の中に建っています。境内にはその他にも多くの堂宇が建ち、また塔頭寺院にもたくさんの建物があります。東京からわずか30分のベッドタウンで、室町時代から現在に至る迄仏教建築を楽しむことができます。
このページでは、法華経寺の創建以来の歴史や沿革、
文化財や塔頭寺院など境内についての概要をご案内いたします。
日蓮宗大本山 正中山法華経寺 歴史と沿革
日蓮宗大本山正中山法華経寺
日蓮宗大本山正中山(しょうちゅうざん)法華経寺は、祖師日蓮の足跡がみとめられる日蓮宗の霊蹟寺院・大本山です。
中世、この地は八幡荘谷中郷と呼ばれ、下総国守護千葉氏の被官である
富木常忍と太田乗明が館を構えていました。彼らは曽谷郷の曽谷氏とともに、日蓮に帰依してその有力な壇越となりました。時に鎌倉時代の中期、建長年間(1249〜55)頃のことです。
富木常忍、太田乗明らの館には持仏堂が建立され、のちにそれが寺院となったのが法華経寺の濫觴です。若宮の富木氏の館は法華寺、中山の太田氏の館が本妙寺となり、当初は両寺が並びたって一寺を構成していました。この両寺が合体して法華経寺を名乗るの、戦国時代の天文十四年(1545)以後のことです。
富木常忍は出家して
日常と名乗り、法華経寺初代貫主となり、二代目は太田乗明の子日高が継ぎました。そして千葉胤貞の猶子である日祐が第三代貫主となった鎌倉末期から南北朝期ごろ、法華経寺は隆盛の時代を迎えます。千葉胤貞は当時、守護ではありませんでしたが、千葉氏の有力な一派として威をはり、下総、肥前などの土地を寄進して、日祐の後押しをしています。日祐は胤貞の亡父宗胤の遺骨を安置し、名実ともに法華経寺を胤貞流千葉氏の氏寺とし、その後の法華経寺の基礎をつくりました。その後、室町時代をへて江戸時代に至ると、日蓮宗五大本山の一と位置付けられ、ひろく庶民にまで信仰される寺院となります。寛永年中(1624〜1644)には末寺132、天明年中(1781〜1789)には末寺200、塔頭28を有していたとの記録もあります(寺院本末帳)。
法華経寺には、祖師日蓮の書いた「立証安国論(りっしょうあんこくろん)」「観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)」、東国社会の生々しい現実を知る貴重な資料「中山法華経寺文書」など国宝や国指定重要文化財をはじめとして多数の聖教(仏典)類が保管されています。これは千葉氏のもとで文筆官僚の任にあたっていた日常が熱心に整理保存に意をそそいで以来、寺内の宝蔵や坊で厳重に保管されてきた結果です。現在は境内の奥の堅牢な聖教殿(しょうぎょうでん)で保管されており、その伝統はいまも確かに受け継がれています。
また、日蓮自筆の聖教の裏からは、鎌倉時代の古文書(中山法華経寺文書等)が発見されました。これを紙背文書と言います。これは富木常忍が提供した千葉氏関係の事務所類を、裏返して著作の料紙として日蓮が使用した結果、偶然のこされたもので、歴史に残りにくい人身売買や借金の実態など、当時の東国社会の生々しい現実を知る貴重な資料となっています。
寺内にはその他、国指定重要文化財の法華堂・祖師堂をはじめとする堂舎、絵画や古記録・古文書などの数々の文化財があります。また周辺には日蓮が鎌倉にむけて船出したという二子浦(現船橋市二子周辺)の伝説など、日蓮にまつわる伝説も豊富にのこされています。
これらにより大本山としてはもちろん、さながら文化財の宝庫として、法華経寺の名は全国に知られています。
古くは室町時代の連歌師
柴屋軒宗長、また、江戸名所図会にも描かれ、明治の文人
正岡子規の句にも詠まれて、
高濱虚子の写生文集「中山寺」は子規に促されて訪れた中山法華経寺や明治時代の市川市の様子を描いています。また、
幸田露伴の代表作「五重塔」にも中山鬼子母神として登場し、
永井荷風も法華経寺を訪れ、「断腸亭日乗」や「葛飾土産」戦後間もない法華経寺の様子を描いています。
中山法華経寺境内案内板(平成十年十二月 市川市教育委員会)より
中山村法華経寺門前助兵衛の慶応元年身延道中記 より
日蓮宗大本山 正中山法華経寺境内の堂塔
中山法華経寺境内にはたくさんの堂塔があります。国指定の重要文化財であり日蓮宗で最古の建造物でもある法華堂をはじめ四足門、祖師堂、五重塔。
上の図は、法華経寺境内に掲示されている案内図です。このようにたくさんの堂塔があります。法華経寺内堂塔の案内は
堂塔案内ページでご確認ください。
桜の名所 法華経寺境内のスライドショー動画