明戸古墳石棺|江戸名所図会にも紹介された古墳
明戸古墳石棺は市川市指定の文化財です。里見公園内北部奥、木々の間の尾根状の高台の上に2つの石棺が並んで置かれています。この丘は古墳の跡のようです。国府台近辺には法皇塚遺跡や弘法寺古墳もあり、古代からこの台地にたくさんの人々が住んでいたことが想像できます。明戸古墳の石棺は、室町時代の文明11(1479)年に太田道灌が現在の里見公園のあるこの地に国府台城を築いた時に発見されたと伝えられています。江戸時代には国府台合戦で敗退した里見氏の墓とも伝えられていたようですが、江戸名所図会では古代の人の墓と記載されていました。蓋石は里見公園内に置かれている夜泣き石の敷石に使われているようですが、緑泥片岩製の板を数枚組み合わせて造られた、組み合わせ式箱型石棺です。古墳時代後期(6世紀後半〜7世紀初頭)に造られた前方後円墳。明戸古墳石棺は、古墳時代にもたくさんの人がこの地域にいたことを今に伝える大切な歴史遺産です。
明戸古墳石棺
明戸古墳石棺
明戸古墳は、全長40mの前方後円墳です。周辺からは埴輪が採集され、埴輪から6世紀後葉に造られたことがわかります。2基の石棺は板石を組み合わせた箱式石棺で、後円部墳頂近くに造られ、今でもその位置を保っています。かつての写真から石棺の蓋と思われる板石は、里見公園にある「夜泣き石」台座になっています。石材は黒雲母片麻岩で、筑紫石と呼ばれるものです。石材は筑波山麓から切り出され、霞ケ浦・手賀沼・江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われます。
この2基の石棺は、天保7(1836)年に発行された「江戸名所図会」に「石櫃2座。同所にあり。寺僧伝え云う、古墳2双の中、北によるものを、里見越前守忠弘の息男、同性長九郎弘次といへる人のはかなりという。一ツはその主詳ならず。或は云う、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。中古土崩れたりとて、今は石棺の形地上にあらわる。その頃櫃の中より甲冑太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、今その一二を存して総寧寺に収蔵せり。按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎及び正木内膳の墓とするは何れも誤りなるべし。」と書かれ、図も描かれています。「江戸名所図会」によって19世紀にすでに石棺があらわれていたことがわかるばかりか、失われた出土資料を知ることができます。
平成16年3月
市川市教育委員会
明戸古墳石棺前案内板より
抜粋・引用および参考
明戸古墳石棺前案内板
市川市ホームページ
里見公園内案内板
江戸名所図会6 ちくま学芸文庫
明戸古墳石棺(里見公園内)の最寄り駅と住所
- 京成本線「国府台駅」徒歩10分
- 北総開発鉄道「矢切駅」より徒歩10分
- 千葉県市川市国府台3−9 里見公園内
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明戸古墳石棺
江戸名所図会にも紹介された古墳時代後期に造られた古墳の石棺。
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