神明(豊受)神社|行徳の始まりを伝える神社
行徳橋の南詰から行徳街道を少しあるくと、行徳街道沿いに
神明(豊受)神社があります。御祭神は豊受大神。神明(豊受)神社は、行徳で一番由緒ある神社です。
神明(豊受)神社は金海法印という山伏により、伊勢神宮内宮神前の土を御神霊として建立されたと伝えられる、行徳の地名と行徳千軒寺百軒という町の起こりを伝える歴史ある神社です。3年に一度10月行われる勇壮な祭り「行徳五ヶ町の大祭」も、神輿造の伝統を受け継ぐ行徳にふさわしいお祭りです。
また、「行徳町道路元標」も境内に置かれています。
神明(豊受)神社は、行徳の歴史の勉強に最適な神社です。
神明(豊受)神社の歴史
神明(豊受)神社
本社の起こりについては、金海法印という山伏が伊勢内宮の土砂を中州(江戸川区東篠崎町辺り)の地に運び、内外両皇大神宮を勧進して神明社を建立したのに始まるといいます。
金海法印は土地の開発と、人々の教化に努め、徳が高く行いが正しかったこところから、多くの人々に行徳さまと崇め敬われました。 この行徳さまがやがて行徳の地名になったというのですが、金海法印が行徳を訪れたのは大永7年(1527)のことといわれ、また天文11年(1542)のこととも、慶長19年(1614)のことともいわれています。
中州に建てられた神明社が、現在地に遷座したのは寛永12年(1635)のことで、葛飾誌略という本には、 「中州に在る時は小祠也。寛永12乙亥大社に造立。その造立の十五ヶ村より寄進ありといふ。本願主田中嘉左衛門、元文2丁巳年・享保元申年とも田中三左衛門催しにて、祭礼に始めて屋台を出す。町内も此の時4丁に分る。新田とも屋台五つ、新宿客祭として屋台以上6つ也。」
とあって、屋台の出る賑やかな祭りの様子が伺われます。 現在、3年1度の祭礼には、神輿渡御の行事が行われ、大神輿が町内を練り廻りますが、その勇壮な揉み方に特色があり、揉み方保存会がその継承に当たっています。
なお本社の境内には金毘羅社、道祖社、水神社、稲荷社の4柱が祀られています。
平成2年3月
市川市教育委員会
神明(豊受)神社境内内案内板より
神明(豊受)神社の歳時・みどころ
行徳五ヶ町の大祭
三年に一度、10月に行われる本祭りには約500キロもの重さがある立派な宮神輿が町内を巡行します。その年の豊作のお礼と来年の豊作、そして町内の安全を祈願するお祭りとしてこの地域に昔から伝わる祭りの形を今も伝えており、その神輿を揉む(担ぐ)さまは、この地域でしか見られない独特のものです。
何の飾りもない白い装束に身を固めた24人の男たちが、神輿を片手で高く差し上げ、一回転、次にほおりあげる。そして最後に「地すり」といって握りこぶしひとつあくくりいまで地面すれすれにもっていき一回転する。この動作を繰り返します。
神輿は、当神社で「御霊(みたま)入れ」の神事を行った後、下新宿稲荷神社へと渡ります。稲荷神社を出ると、神輿は本行徳1丁目から順に、2丁目、3丁目、4丁目、そして本塩と渡され(渡御・・とぎょ)豊受神社で宮入をした後、当神社へと戻ってきます。
神明(豊受)神社前案内板より
行徳町道路元標
行徳町道路元標
道路元標というのは、大正8年(1919)に告示された道路法施行令により、各市町村に道路の起点や終点および町村の位置を示す指標として設置されたもので、道路の等級や幅員を決めるなど、その後の全国にわたる道路整備の基点になるものでした。
市町村役場の近くおよびメインストリートや交差点付近など多くの人の目につきやすい場所に設置され、その様式として大正11年(1922)の内務省令により、石材その他の耐久性材料を使うことや○○市町村元標と記載する旨が規定されています。
この石造物には「行徳町道路元標」と記されており、発見された場所も行徳街道と成田道でもあった寺町通りと交差する場所で、近くに町役場もあったことから、そのことが伺えます。
協力・市立市川歴史博物館
神明(豊受)神社境内内案内板より
抜粋・引用および参考文献
神明(豊受)神社境内内案内板
神明(豊受)神社前案内板
江戸名所図会6 ちくま学芸文庫
房総叢書 紀元二千六百年記念 第8卷葛飾紀
房総叢書 紀元二千六百年記念 第6卷葛飾誌略
神明(豊受)神社の最寄り駅と住所
東京メトロ東西線「妙典駅」より徒歩15分
千葉県市川市本行徳1−10
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