江戸の東の入口であり行徳の入口、今井の渡し旧跡
今井の渡し旧跡は、江戸の東の玄関口で江戸川の物流拠点の今井の渡し場の跡。現在の今井橋を渡った江戸川の東側に、大正元年まで今井の渡し場はおかれました。豊臣秀吉の小田原征伐後、徳川家康は江戸に移り、東金に鷹狩に行く際この今井の渡し付近から行徳に入り、権現道を通ったと伝えられています。二代将軍秀忠や大多喜城主も今井の渡しを使ったと、葛飾誌略に記されています。また、この渡し場は室町時代後期の連歌師宗長の「東土産」にも登場することから、江戸時代以前からこの付近にあったと考えられています。江戸時代には、近在の者のみの利用が許されていました。この渡し場から富士山も見え、江戸に荷を運ぶたくさんの舟が川を行き来する風光明媚な渡し場だったそうです。明治になり、この風景に蒸気船も加わって、江戸川はたくさんの人と船で賑わっていたそうです。今井の渡し旧跡は、鉄道や自動車の発達する以前、江戸の盛んな水運の歴史を今に伝えています。
今井の渡し旧跡
寛永8年(1631)10月に許可された水幅118間(約207メートル)、水幅60間(約109メートル)の渡し。大正元年(1912)初代の今井橋が架けられて役目を終えました。
連歌師柴屋軒宗長が永正6年(1509)浅草から船に乗り今井の津頭で下船、紀行文「東路の津登」で紹介したのが文献上のはじまりです。
江戸時代になってからは、江戸からの客は渡しましたが、江戸へ行く客を渡すことは禁じられていました。正保元年(1644)千葉の生実の城主森川半彌の家来男女2人久三郎とイネが駆落ちしてきて禁を犯して今井側へ渡ろうとして捕らえられて船頭とその女房を含めて5名が磔の刑に処せられました。
今井の渡し場から一丁(約109メートル)下流にあった磔場に久三郎とイネは葬られて、目印の石地蔵が建てられて「ねね塚」といわれましたが、何れの頃かの洪水でその所在は不明になったとされています。
(「葛飾誌略」)
今井の渡し旧跡案内板より
抜粋・引用および参考
今井の渡し旧跡案内板
市川市ホームページ
江戸名所図会6 ちくま学芸文庫
房総叢書 紀元二千六百年記念 第6卷葛飾誌略
今井の渡し跡と江戸川の散歩道
柴屋軒宗長の紀行文「東路の津登」にも登場する今井の津。江戸川の歴史を今に伝えています。
今井の渡し跡のほかにも、江戸川の川辺には素敵な公園や歴史的な名所があります。
今井の渡し旧跡
千葉県市川市相之川1-27付近
東京メトロ東西線「南行徳駅」より徒歩15分。
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今井の渡し旧跡
江戸の東の入口今井の渡し場跡。