常夜灯公園|江戸から房総・北関東への旅と物流の拠点
江戸川河川敷土手の上に建つ石灯籠、市川市指定有形文化財の
常夜灯です。
常夜灯に「日本橋」と行き先も彫られています。江戸名所図会や葛飾誌略などによれば、この常夜灯の建つ岸は新河岸と呼ばれ、僧侶宿の亀屋や木賃宿の山口屋などの宿屋もあり、房総と常陸への街道の起点として、また、北関東や東北からの水運による江戸への物資輸送の中継点として賑わっていたそうです。江戸日本橋小網町から小名木川・新川を経て行徳新河岸で上陸し、鹿島街道、佐倉街道(現千葉街道)、成田街道へと旅人が行き交いました。剣豪宮本武蔵も松尾芭蕉もこの地を経て旅をしたのでしょう。また、徳川家康による利根川東遷で、水運が発達し、房総の海産物、北関東の野菜、行徳の塩など多くの物資が集積しました。行徳新河岸は、江戸時代に江戸と房総や北関東、東北地方へ、人や物資の輸送を結ぶ拠点でした。今でも行徳街道沿いに当時の面影を残す建物が点在しています。
常夜灯
市指定 常夜灯 有形文化財(昭和35年10月7日指定)
この常夜灯は、文化9年(1812)、江戸日本橋の成田講中(成田山新勝寺への講)の人々がたてたものです。成田講中が航路安全を祈願して建てたと推察されます。なお側面には協力した人々の名前が刻まれています。江戸時代、成田山新勝寺には江戸から多くの人々が参詣しました。行徳は、江戸から成田にかけての重要な中継地点でした。
そして、常夜灯付近の現在地を新河岸(船着場)と呼びました。
「新」の字が示すように、元禄3年(1690)、図にあるような景観が整備されたと推察されます(葛飾誌略)。また、この地から江戸に向けて船が行き交っていました。一般に、この船は行徳船と呼ばれ、江戸川を下り、新川・小名木川を経由し、日本橋小網町まで就航していました(約12.6キロ)。成田講中の人々や行徳産の塩も、行徳船を利用して江戸に運ばれたようです。
また有名な人物として、松尾芭蕉(俳人)や渡辺崋山(田原藩家老)なども行徳を訪れています。特に渡辺崋山は『四州真景図巻』という作品の中で常夜灯及び周辺景観をスケッチしています。
明治時代になると、江戸川には蒸気船がみられるようになります。
『成田土産名所尽』という記録には、明治以降の常夜灯の周辺の様子が描かれています。常夜灯周辺が多くの人々で賑わった様子がわかります。そのため、常夜灯は江戸川の行き交う船や多くの人々の目印の役割もはたしてきたと思われます。
平成21年(2009)、現在地周辺は常夜灯公園として整備されました。
2012年 市川市教育委員会
常夜灯公園内案内板より (一部割愛)
行徳新河岸の賑わい
行徳新河岸〜新河岸の賑わい〜
江戸時代の新河岸(現在地)は、船で往来する人や物資などで賑わう場所で、成田山につながる成田道の起点でもありました。江戸川・常夜灯を背にして、旧行徳街道までの間は、江戸名所図会にも描かれており、その様子がうかがえます。
この道筋には、まず番人が詰める施設と掟などが記された高札場や、旅人などが休憩した信楽などの旅館がありました。旅館信楽は、近江国信楽出身者が行徳に移住したことにちなむ呼称です。信楽から道(旧行徳街道)を挟んだ向かいの建物が「笹屋」と言われるうどん屋です。「笹屋」は、江戸時代の文学作品にも記され、源頼朝が訪れた伝承を残しています。
明治時代に入り、江戸川に蒸気船が運行されると、地元では「蒸気河岸」とも呼ばれるようになりました。「蒸気河岸」の発着場として新河岸界隈は多くの人々で賑わっていました。
常夜灯公園内案内板より (一部割愛)
抜粋・引用および参考
常夜灯公園内案内板
市川市ホームページ
江戸名所図会6 ちくま学芸文庫
房総叢書 紀元二千六百年記念 第6卷葛飾誌略
常夜灯公園の最寄り駅と住所
千葉県市川市本行徳34・35 付近の江戸川土手上
東京メトロ東西線「妙典駅」より徒歩15分
行徳常夜灯公園の近く観光名所のご案内
緑に豊かな心安らぐ第7番札所。
江戸名所図会に描かれた古刹。
行徳の歴史と伝統を伝える神社
勝海舟ゆかりの第4番札所
江戸から房総の旅の起点。
頼朝伝説の残る笹屋うどん跡
素敵な山門のある第23番札所。
五智如来像のある第24番札所。
浄天ゆかりの第25番札所。
江戸の東の入口今井の渡し場跡。