永井荷風の『断腸亭日乗』の散歩道
戦後間もない昭和21年1月に市川市菅野の地に引っ越してきた
永井荷風の日記『断腸亭日乗』の中に、八幡から中山など市川市内や近隣の江戸川区、船橋市の風景が幾度となく紹介されています。中山法華経寺、白幡天神社、葛飾八幡宮とその境内にある神楽殿、八幡の藪しらず、真間山弘法寺、原木山妙行寺などの当時の姿がとても詳しくが描かれています。特に荷風の自宅近所の白幡天神社と中山法華経寺についての記載は多くあり、何度も訪れていたようです。断腸亭日乗には、下総中山の駅に傘を忘れた記述もあり、また、当時を知る人は荷風が茶色のスーツ?を着、傘を片手に真間川周辺などを歩いている姿をよく見たといいます。
このページでは、晩年を千葉県市川市で過ごした永井荷風の『断腸亭日乗』に描かれていた素敵な名所をご紹介します。真間、八幡、中山、原木、市川、西船橋、船橋、小岩と地域を分けて散策することをお勧めします。春は桜、秋は紅葉など、季節ごとに市川市の美しい風景を楽しむことができる、永井荷風ゆかりの素敵な散歩道です。
永井荷風
明治12年12月3日東京生まれ、昭和34年4月30日千葉県市川で没する。(1879〜1952)
小説家。本名、壮吉。別号、断腸亭主人ほか。
1899年東京高商付属学校清語科中退。広津柳浪のに師事し、フランスの小説家ゾラの影響を受け、「地獄の花」(1902)などでゾライズムの紹介を試みた。1903年にアメリカ、次いでフランスに渡り08年に帰国。「あめりか物語」(08)で名声を得、09年「ふらんす物語」「深川の唄」「すみだ川」「冷笑」などを発表。独自の文明批評と耽美享楽の作風で反自然主義の代表作家として重きをなした。東京の形骸化した文明への憎悪、大逆事件(10〜11)の衝撃などで江戸趣味を強め、花柳界を描いた「腕くらべ」(16〜17)、「おかめ笹」(18)などを発表。「つゆのあとさき」(31)、「?東奇譚」など風俗描写にも才筆を示した。
第二次世界大戦中は沈黙したが、戦後、その間にひそかに書きためた「浮沈」「踊子」「勲章」「来訪者」や17年以来の日記「断腸亭日乗を発表。
1946年1月に千葉県市川市に移り住む。52年文化勲章受章。
参考
「新版 断腸亭日乗 第六巻」 岩波書店
ブリタニカ国際大百科事典
デジタル大辞林
永井荷風の『断腸亭日乗』で紹介された観光名所
永井荷風が断腸亭日乗のなかで幾度も紹介している古刹。
昭和21年5月8・9日に訪れたことが断腸亭日乗に書かれています。
荷風は昭和21年12月4日に奥之院を訪れています。
昭和21年5月9日に訪れたことが断腸亭日乗に書かれています。
荷風は昭和21年11月30日に訪れ、山門の彫刻を紹介しています。
昭和21年5月8日に訪れたことが断腸亭日乗に書かれています。
荷風は春に真間で桜の花見をしたことを表す歌をよんでいます。
永井荷風の断腸亭日乗の一文を刻んだ石碑のある神社。
頼朝公伝説も伝えられる崖の上に立つ桜並木の美しい神社。
万葉集にうたわれた絶世の美女手児奈を祀るお堂。
北原白秋が一時住み、真間の井のあることで知られる寺院。
行基菩薩造営の下総国国分寺跡に建つ古刹。
断腸亭日乗昭和21年3月18日に訪れた様子が描かれています。
断腸亭日乗昭和21年9月12日の項に書かれています。
傘を片手に真間川の沿道を歩く荷風の姿がよく見られたそうです。真間川は桜の名所でもあります。
浦安、行徳、行徳橋、市川橋、国府台、葛飾橋など江戸川堤を荷風が訪れる様子が描かれています。
永井荷風は度々市川駅前で夕餉をとっていました。現在とは違う風景が描かれています。
JR本八幡駅からバスで行徳や浦安に行く様子が描かれています。行徳橋で降りた記事もあります。
断腸亭日乗に昭和22年2月9日に訪問した様子が描かれています。
昭和22年1月26日、荷風により再発見された井戸。
断腸亭日乗に昭和22年2月9日に訪問した様子が描かれています。
断腸亭日乗に昭和22年1月26日の項に紹介されています。
昭和22年8月21日隣室の騒音から逃れて訪れたと記されています。
昭和22年10月19日の御祭礼の記事が載っています。
昭和22年10月19日の御祭礼に訪れた様子が記されています。
本堂奥、鐘楼堂脇に永井荷風の福寿草の歌碑があります。
昭和23年から昭和26年にかけて数回登場します。
永井荷風の『断腸亭日乗』などで紹介された観光名所の所在地