新川(船堀川)は江戸と房総・北関東・東北を結ぶ水運の大動脈
江戸川区を東西に流れる
新川は、荒川・中川と
江戸川を結ぶ運河でした。昔は
船堀川と呼ばれていたそうです。徳川家康は江戸に入るとすぐに 小名木川を開削し、新川を経て当時太日川と呼ばれた江戸川につなぎ、
行徳(千葉県市川市)の塩を江戸に運ぶ航路を整備したそうです。後にこの運河は東北・北関東・房総から江戸へ多くの物資を運ぶ流通の大動脈となったそうです。また、一日に60艘もの行徳船と呼ばれた客船も就航していたそうです。当時の繁栄を物語るように、新川沿岸の船堀・一之江・葛西地区には多くの寺院が残っています。
また、江戸時代後期から大正にかけて、新川の南側では「新川梨」という梨が栽培されていました。新川東詰の新川口児童公園には「新川梨について」と書かれた案内板があり、江戸川を少し北に遡った
浄興寺に「新川梨の碑」が残されています。新川は、桜並木と江戸情緒を表す木造の建物や橋のある素敵な散歩道です。
新川 江戸川区指定史跡
新川 江戸川区指定史跡(昭和61年2月12日指定)
かつて、江戸川から古川の流れを経て、三角で新川に入り、西へ至る流路がありました。
天正18年(1590年)の徳川家康江戸入城後、その命により、この流路を含め、行徳までの航路として、道三堀、小名木川と共に開削が計画され、実行されました。
寛永6年(1629年)には、現在の新川橋辺りから東側が新たに開削され、今では全体が新川と呼ばれるようになりました。以来、新川は、江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されてきました。また、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。
新川は、江戸時代から明治・大正に至るまで、利根川・江戸川を経由して、東日本からの様々な物資を運び、客船が行きかう重要な水路として発展し、地域の人々の生活に深く関わってきました。
しかし、昭和に入り荒川放水路の完成や東西の水門の閉鎖等により、船の就航も行われなくなりました。
さらに、高度経済成長期には、地下水の汲み上げによる地盤沈下により、新川との間に何回も嵩上げされた高い護岸が整備され、人々の生活から遠い存在となってしまいました。
その後、平成5年より耐震護岸整備・親水河川化や新川千本桜整備が進められ、都市空間の中の貴重な水辺として生まれ変わり、親しまれています。
新川沿岸案内板
引用、抜粋並びに参考
新川沿岸案内板
新川口児童公園「新川梨について」案内板
江戸川区ホームページ
市川市ホームページ
新川沿岸には色とりどりのツツジが植えられています。東詰めにはツツジの島もあります。
新川沿岸の散歩道
西詰中川・荒川放水路の土手から江戸川まで3キロメートル以上の長い桜並木です。
江戸情緒ある火の見櫓と水門跡のある広場。中川土手からは富士山も見える、桜も美しい広場。
葛西地域の始まりの地、緑豊かな公園のある美しい散歩道。
春は梅、初夏と秋にはバラの花の楽しめる江戸川区の児童公園 。
江戸川端、新川の南の小さな地域にはたくさんの寺院があります。
美しく整えられた松と七福神像の建つ石庭のある日蓮宗の寺院。
新川千本桜のスライド動画