大本山 正中山法華経寺 大仏(法華経寺銅造釈迦如来坐像)
大本山 正中山法華経寺 大仏(市川市指定文化財 法華経寺銅造釈迦如来坐像)
法華経寺の大仏、釈迦如来坐像はお釈迦様が悟りを開かれた姿の坐像です。
丈六像と云われて来ましたが、像高は356p、膝張279.5pの法量をもつ大佛像で参拝の人を優しく包み込むお釈迦さまの貴高さを表しておられます。京都洛中本山本法寺第廿八世から享保二年(1717)八月當山第五十九世貫首の法燈を継承された玄理院日禪聖人は熱烈な布教活動を行い浄財を集め神田鍋町に住む御鋳物師太田駿河守藤原正義に依頼して享保四年九月にこの大佛が完成いたしました。
腰部には、「四海安泰五穀成熟」「壇門勃興庶民快楽」を祈念して建立されたとあります。
平成30年12月8日に修復を終えました。これから数百年先の未来まで、中山大仏は、中山法華経寺を訪れるたくさんの人々を優しく迎えてくれます。
京都洛中日蓮宗本山叡昌山本法寺
日蓮宗本山叡昌山本法寺は、久遠成院日親上人の開創で、永享8年(1436)京都東洞院綾小路に建立されました。
日親上人は、室町幕府6代将軍足利義教に「立正治国論」を献じ、平和の招来を直言しましたが、これが将軍の忌諱に触れ獄舎に投ぜられた上、寺も焼却されました。
さらに、将軍義教が上人に加えた刑罰は次第に苛酷となり、ある時は焼鍋を頭にかぶせる等の残虐眼を覆う迫害もありました。 世に「冠鐺(なべかぶり)日親上人」と称するのは、この法難をいいます。
しかし、上人の大慈大悲の法華弘通の大不動心は、遂に後花園天皇の叡感に適い、康正元年(1455)四条高倉辺に官地を賜り本堂の再建が実現されました。
その後、長禄4年(1460)三条万里小路に移建することとなり、さらにまた、天文年間に一条戻橋辺(現今の晴明神社)に移りましたが、天正15年(1587)に、当時の都市区画整理により現在地に移り、時の第10世日通上人は、寺領千石の寄進を受け、光悦の父・光二は私財を投じて再建、堂塔伽藍は厳然として京洛の空に聳え、日蓮宗門の一大偉観を呈しました。
かくて時移り、天明8年(1788)の大火は洛中を忽ち灰燼となし、豪華を誇った本法寺の伽藍も遂に炎上の災厄に逢い、僅かに経蔵と宝庫とを残すのみとなりましたが、その後、檀信徒の堂塔再建の悲願は着々結実され、今日の本法寺の存在を見るに至ったのであります。
鋳物師太田駿河守藤原正義
太田正義は、宝永・正徳から享保にかけて活躍した鋳物師。深川の地蔵坊正元の発願で建てられた江戸六地蔵(浄土寺、霊巌寺都指定有形文化財)や深川富岡八幡宮の水盤を鋳造した神田鍋町の鋳物師「太田駿河守正儀」のこと。
江戸六地蔵
江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである。
鋳造は神田鍋町の鋳物師、太田駿河守藤原正儀により、像高はいずれも270cm前後である。造立時には鍍金が施されていた(東禅寺の第二番は弁柄色の漆)が、現在では金箔の痕跡をわずかに残すだけとなっている。それぞれの像内には小型の銅造地蔵菩薩坐像や寄進者名簿などが納められていた。また、像や蓮台には寄進者の名前が刻まれており、寄進者は合計すると72000名を越える。
品川寺(品川)、東禅寺(浅草)、太宗寺(新宿)、真性寺(巣鴨)、霊巌寺(白河)、永代寺(富岡)に祀れれていました。しかし、の第六番永代寺は富岡八幡宮の二の鳥居付近にあったが、明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり取り壊された。現存する第一番から第五番までは、すべて東京都指定有形文化財に指定されている。
応永14年〜長享2年(1407〜1488)
室町時代の日蓮宗の僧。鐺冠日親として有名。号は久遠成院。
日親上人は、上総国埴谷(千葉県山武市埴谷)の、埴谷氏一族にお生まれになり、埴谷氏が信仰していた正中山法華経寺(千葉県市川市)塔頭に一つ正中山法宣院の日英上人の弟子となられました。応永三四年に上洛、伝道活動の第一歩として一条戻橋のたもとで説法されました。
その後九州伝導の途につき、肥前国小城郡松尾(佐賀県小城市)の光勝寺で教団の指導にあたられました。それまでの光勝寺は中山法華経寺と両山一主制(兼任)でしたが、初めて専任の住職として日親上人が迎えられたのです。九州肥前での日蓮宗教団の発展に大きく寄与しました。佐賀県内には光勝寺をはじめ、日親上人により開かれた寺院、他宗より改宗された寺院や、霊跡が数多くあります。ところが、日親上人は厳格な日蓮宗の信仰を主張され、領主千葉一族を厳しく批判されたために、永享九年(1437)ついに破門されて光勝寺を去り、再び上洛されました。
その翌年、室町幕府第6代将軍足利義教に対して、日蓮聖人の教えを信奉し他宗の信仰を捨てることを直訴されましたが、まったく顧みられませんでした。そこで再び諫暁を試みようとして『立正治国論』を著され、これを浄書しているうちに捕われて牢に入れられました。牢の中で日親上人はいろいろと厳しい刑罰を加えられましたが、その翌年に嘉吉の乱で将軍義教が謀殺されたので、特別の恩赦によって出獄されました。
この後、日親上人は、京都に本法寺を建立されてここを本拠とし、全国各地を廻って伝道につとめられました。ところが日親上人の主張は日蓮聖人の教えを守ることを厳しく要求し、他宗を激しく攻撃するものでしたから、行く先々で迫害を受けられました。熱く焼けた鍋を頭にかぶせられても信念を貫いたといわれ、「鍋冠日親」と呼ばれるようになりました。
幕府はこのような伝道活動を続ける日親上人を罰し、寛正三年(一四六二)、再び牢に入れられましたが、その翌年八月には臨時の大赦が行なわれて、自由の身となられました。
これより日親上人は、自らの伝道の旅に赴かれることは少なく、京都本法寺を本拠に教団の整備を積極的に進められました。
八二歳になられた長享二年(一四八八)九月、日親上人は病にかかられ、伝道と法難の生涯を終えられました。
足利義教(1394〜1441在職1429〜41)
室町幕府第6代将軍。第3代足利義満の子、母は三宝院坊官安芸法眼の娘藤原慶子。応永10年6月(1403)青蓮院に入室して義円と称し、同26年11月3日天台座主に補せられた。
兄義持に後嗣が無かったため、正長元年(1428)1月17日、重臣らが石清水社前でくじを引いて義円を後嗣と定め、1月18日に義持が死ぬと青蓮院から出て義持の跡を継いだ。
同年3月従五位下左馬頭となり、義宣と改名し、永享元年3月9日元服。次いで15日には参議、左近衛中将に任じ、征夷大将軍に補せられ、義教と改名した。これは「義宣」が「世を忍ぶ」に通じるのを嫌ったためと言われる。
続いて29日には従三位権大納言、12月13日従二位に進み、翌2年10月17日従一位。さらに同4年7月25日内大臣、8月28日左大臣、12月9日には殿上別当、、院大別当、淳和奨学院別当及び氏長者に兼補された。
義教の性質は強烈で、将軍の権威の伸長に力を注ぎ、同10年には、関東に幕府から独立した権力を樹立しようとした鎌倉公方足利持氏を滅ぼし(永享の乱)、同12年には一色義貫、土岐持頼ら有力な守護大名を打ち、また興福寺、叡山などの僧徒を攻めて屈服させるなど、大いに幕威を宣揚した。しかし、その策があまりにも厳しかったため、諸将の不満と不安を招き、ついに嘉吉元年(1441)6月24日に赤松満祐のために、結城合戦戦勝の祝賀にことよせて彼の邸に招かれ謀殺された。(嘉吉の乱)
法号を普広殿善山道恵といい、同月29日に朝廷から太政大臣を送られ、7月6日等持院に葬られた。
デジタル大辞林
ブリタニカ国際大百科事典
市川歴史探訪―下総国府の周辺―千野原靖方著
叡昌山本法寺ホームページより
松尾山光勝寺ホームページより
ウィッキペディアより
港区ホームページ
法華経寺 大仏前「勧進趣意書」より
正中山法華経寺 大仏(釈迦如来像)の交通案内と所在地
正中山法華経寺 大仏(釈迦如来像)の最寄り駅と住所
- JR総武線下総中山駅下車 徒歩7分
- 京成線京成中山駅下車 徒歩4分
- 千葉県市川市中山2−10−1 正中山法華経寺境内
日蓮宗大本山 正中山法華経寺 境内と周辺の観光名所ご案内
本院の奥に鬼子母神堂があります。日蓮大聖人御親刻の鬼子母神像を安置されています。。怨魔退散、子育ての守護神として崇められています。
法華経寺の春は満開の桜に彩られます。夏は龍王池の蓮の花、秋は泣き公孫樹。大荒行入行会、大荒行成満会、節分会など季節ごとに趣があります。 また、春と秋には境内で骨董市も開かれます。
比翼入母屋造りのお堂。中老日法上人の作の日蓮聖人像が安置されています。両脇には当山歴代6祖の御像を奉安いたします。正面の大額「祖師堂」は本阿弥光悦筆。
江戸時代前期元和5年(1622)18世正教院日慈上人代に本阿弥光室の本願により、加賀(石川県)前田公の寄進により建立されました。三間四面銅板葺。
桁行五間、単層入母屋造、銅板葺、鎌倉時代文応元年(1260)の創建。日蓮聖人自ら一尊四菩薩を開眼安置す。百日百座説法の霊跡す。
切妻造檜皮葺、約七百年前鎌倉愛染堂に在ったものを移築して法華堂の正門に立てたもの。
建築家伊東忠太氏の設計。法華経寺の寺宝を保管している。11月のお風入れの際には、その一部を公開しています。
清正公大神祇とは、戦国武将で大壇越の加藤清正公没後、神仏の化身として信仰するようになったのだそうです。
三大荒行で知られる日蓮大聖人直授の秘伝、大荒行が行われる 11月1日より2月10日までの百日間、この建物で行われます。
三門・赤門とも呼呼ばれています。広壮な建物。扁額「正中山」は桃山から江戸時代に活躍した本阿弥光悦筆によります。
十羅刹女・鬼子母尊神・大黒様を安置し、罪障消滅の霊場として、参詣者が終日、太鼓の音を響かせている。甲子の日は特別祈祷が厳修される。
総門とも呼ばれています。古風にして雄大、太田資順筆の如来滅後、閻浮提内、本化菩薩、初転法輪、法華道場の額を揚げてあります。
日蓮聖人開眼の八大龍王を祠る御堂。雨乞の霊験ありと伝えられています。近年は商売繁盛の守護神として参詣者が後を絶ちません。
法華経寺の守護の宇賀徳正神の本社であり、財福の神として広く知られている。この裏手に清正公堂や太田稲荷が祀られている。
千葉家伝来の北辰妙見尊星を第3代日祐上人が正法護持国土安穏除災招福の守護神として奉安する。11月には酉の市も行われます。
奥之院は日蓮聖人がはじめて説法をした地とされています。また、法華経寺第一世貫主、日常聖人が法華寺を建立した地です。
大仏(釈迦如来坐像)
享保4年(1719)法華経寺59世日禅上人代に鋳造され身丈1丈6尺台座2間半、鋳像では千葉県一を誇る大きさである。
中山法華経寺第一世貫主日常聖人の銅像です。奥之院にもあります。そして日常聖人と息子の日頂上人ゆかりの泣き公孫樹。
法華経寺には重要文化財以外にも、鏡池跡、龍閑橋、宝殿門、鐘楼堂、そしてその周りには季節ごとに咲く花々があります。
安土桃山から江戸初期にかけて活躍した芸術家本阿弥光悦のほか、連歌師宗長、明治の詩人正岡子規ほか法華経寺を訪れています。
中山法華経寺は奥之院や遠寿院、中山四院家などたくさんの素敵な塔頭が建てられています。
法華経寺の周辺には、塔頭寺院ほか東山魁夷記念館などがあり、歴史と文化を楽しめる散歩道です。
中山法華経寺は桜のお花見の名所として、桜の季節にはたくさんの参拝客で賑わいます。