聖教殿 中山法華経寺
中山法華経寺祖師堂の裏、寶殿門を通り抜け森のように深く高い緑の木々に囲まれた道を進み少し開けたところに
聖教殿はあります。白亜の塔のような不思議な形の建造物は明治から昭和にかけて活躍した
建築家伊藤忠太の設計によります。左わきに「瑞門」と書かれた扁額のかけられ日蓮宗大荒行堂への出入口である小さな木製の門があります。春は桜の花が緑の木々を彩ります。
正中山法華経寺聖教殿
聖教殿
一、この建造物は「聖教殿」と申します。
中山法華経寺には、日蓮大聖人の御真筆、国宝、勧心本尊抄、立正安国論を始め重要文化財六十四点、その他が格護されてありますが、その完全な保存を図るために建てられたものであります。盗難、火災、虫害、湿気の害等を長きに亘って受けないよう、近代科学の教えるところをとり入れた保存方法が講じれられています。
一、この宝殿が建設されたのは、昭和六年でありました。計画の発議は、そのほゞ七年前、当時の法華会理事長東京帝国大学教授法学博士山田三良氏を中心に法華経寺、日蓮宗宗務院、その他多方面の協力によって実行された事業であります。建物の設計者は、東京帝国大学教授工学博士伊東忠太氏でありました。
一、宝殿の建設と同時に「聖教護持財団」という財団が組織され、今日も引続き御真蹟の保存護持に当って居ります。御真蹟は毎年十一月初旬に展覧されます。
法華経寺
法華経寺聖教殿前掲示板より
建築家 伊東忠太
伊東忠太 (1867―1954)
建築家、建築史学者、建築学者、東京大学教授。
伊東忠太は慶応3年(1867)10月26日山形県米沢に生まれる。明治6年に父祐順が軍医を志望し家族と共に東京に行き、その後佐倉に移る。明治12年、旧制鹿山中学校(千葉県立佐倉高等学校)に入学し、同14年に東京外国語学校独逸語科に入学するも明治18年同校の廃止により第一高等中学校に編入、明治25年帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部造家学科)に卒業し、その後大学院に進学する。明治26年、法隆寺とギリシア神殿の比較した『法隆寺建築論』を発表。後に同大学にて教鞭をとる。日本や中国・インド(東洋)の古代建築を調査し、東洋および日本の建築史の体系を初めて樹立し、国宝保存会委員として文化財の保存に尽した。学士院会員,日本芸術院会員。昭和18年には建築界初の文化勲章を受賞しました。昭和26年米沢市名誉市民となり同年4月7日に逝去。享年87歳。
主要作品は,平安神宮 (1895) ,明治神宮 (1920) ,築地本願寺 (34) など。主著『法隆寺建築論』『伊東忠太建築文献』『支那建築装飾』など。
伊東忠太作品
橿原神宮(1890年(明治23年)奈良県橿原市 重要文化財)
平安神宮(1895年(明治28年)共同設計 木子清敬・佐々木岩次郎、重要文化財)
豊国廟(1898年(明治31年)京都市東山区)
南部利祥像台座 (1908年(明治41年) 岩手県盛岡市)
ロンドン万国博覧会日本館(1908年(明治31年))
宮崎神宮(1907年(明治40年)、宮崎市 重要文化財)
可睡斎護国塔(1910年(明治43年)、静岡県袋井市、共同佐野利器)
西村捨三像台座 (1910年(明治43年) 大阪市港区)
真宗信徒生命保険(1912年(明治45年)京都下京区、現伝道院 重要文化財)
東京大学正門 (1912年(明治45年) 東京都文京区 登録文化財)
楠妣庵・観音堂・庵・墓(1914年(大正3年)大阪府富田林市)
弥彦神社(1916年(大正5年)新潟県弥彦村 登録文化財)
岐阜公園三重塔 (1916年(大正5年) 岐阜県岐阜市 登録文化財 )
日泰寺仏舎利奉安塔(1918年(大正7年)愛知県名古屋市 登録文化財)
明治神宮(1920年(大正9年)、佐野利器らと共同。社殿の多くは戦災焼失、戦後再建)
上杉神社社殿 (1923年(大正12年) 山形県米沢市)
總持寺放光観音台座(1923年(大正12年)神奈川県横浜市 登録文化財)
東京商科大学兼松講堂(1927年(昭和2年)、現・一橋大学兼松講堂、登録文化財)
大倉集古館(1927年(昭和2年)、東京都千代田区、一部現存 登録文化財)
祇園閣(1927年(昭和2年)、元大倉喜八郎別邸の一部、現・大雲院)
震災祈念堂(1930年(昭和5年)、現・東京都慰霊堂本堂)
古稀庵(こきあん)洋館(1929年(昭和4年)栃木県矢板市 現・山縣有朋記念館)
靖国神社遊就館(1930年(昭和5年)東京都千代田区 登録文化財)
法華経寺聖教殿(1931年(昭和6年)千葉県市川市中山)
靖国神社神門(1933年(昭和8年)東京都千代田区)
靖国神社石鳥居(1934年(昭和9年)東京都千代田区)
築地本願寺(1934年(昭和9年)東京都中央区 重要文化財)
最乗寺真殿・本堂(1934年(昭和9年)神奈川県南足柄市)
湯島聖堂(1934年(昭和9年)東京都千代田区)
高麗神社(1935年(昭和10年)埼玉県日高市)
尾崎神社(1935年(昭和10年)、岩手県釜石市)
新勝寺太子堂・開山堂(1936年(昭和11年)千葉県成田市)
普光寺毘沙門堂(1937年(昭和12年)新潟県南魚沼市)
總持寺大僧堂(1937年(昭和12年)、神奈川県横浜市鶴見区 登録文化財)
明善寺本堂(1937年(昭和12年)、山形県山形市 登録文化財)
俳聖殿(1941年(昭和16年)、三重県伊賀市、重要文化財)
抜粋・引用および参考
法華経寺聖教殿前掲示板
INAX REPORT 特集1 生き続ける建築2 伊東忠太 挑戦する建築家
大辞林
ブリタニカ国際大百科事典
大辞泉
ウィッキペデイァ
正中山法華経寺 聖教殿の交通案内と所在地
正中山法華経寺聖教殿の最寄り駅と住所
- JR総武線下総中山駅下車 徒歩8分
- 京成線京成中山駅下車 徒歩5分
- 千葉県市川市中山2−10−1 正中山法華経寺境内
日蓮宗大本山 正中山法華経寺 境内と周辺の観光名所ご案内
本院の奥に鬼子母神堂があります。日蓮大聖人御親刻の鬼子母神像を安置されています。。怨魔退散、子育ての守護神として崇められています。
法華経寺の春は満開の桜に彩られます。夏は龍王池の蓮の花、秋は泣き公孫樹。大荒行入行会、大荒行成満会、節分会など季節ごとに趣があります。 また、春と秋には境内で骨董市も開かれます。
比翼入母屋造りのお堂。中老日法上人の作の日蓮聖人像が安置されています。両脇には当山歴代6祖の御像を奉安いたします。正面の大額「祖師堂」は本阿弥光悦筆。
江戸時代前期元和5年(1622)18世正教院日慈上人代に本阿弥光室の本願により、加賀(石川県)前田公の寄進により建立されました。三間四面銅板葺。
鎌倉時代文応元年(1260)創建。日蓮聖人自ら一尊四菩薩を開眼安置。百日百座説法の霊跡。
切妻造檜皮葺、約七百年前鎌倉愛染堂に在ったものを移築して法華堂の正門に立てたもの。
聖教殿
建築家伊東忠太氏の設計。法華経寺の寺宝を保管している。11月のお風入れの際には、その一部を公開しています。
清正公大神祇とは、戦国武将で大壇越の加藤清正公没後、神仏の化身として信仰するようになったのだそうです。
三大荒行で知られる日蓮大聖人直授の秘伝、大荒行が行われる 11月1日より2月10日までの百日間、この建物で行われます。
三門・赤門とも呼呼ばれています。広壮な建物。扁額「正中山」は桃山から江戸時代に活躍した本阿弥光悦筆によります。
十羅刹女・鬼子母尊神・大黒様を安置し、罪障消滅の霊場として、参詣者が終日、太鼓の音を響かせている。甲子の日は特別祈祷が厳修される。
総門とも呼ばれています。古風にして雄大、太田資順筆の如来滅後、閻浮提内、本化菩薩、初転法輪、法華道場の額を揚げてあります。
日蓮聖人開眼の八大龍王を祠る御堂。雨乞の霊験ありと伝えられています。近年は商売繁盛の守護神として参詣者が後を絶ちません。
法華経寺の守護の宇賀徳正神の本社であり、財福の神として広く知られている。この裏手に清正公堂や太田稲荷が祀られている。
千葉家伝来の北辰妙見尊星を第3代日祐上人が正法護持国土安穏除災招福の守護神として奉安する。11月には酉の市も行われます。
奥之院は日蓮聖人がはじめて説法をした地とされています。また、法華経寺第一世貫主、日常聖人が法華寺を建立した地です。
享保4年(1719)法華経寺59世日禅上人代に鋳造され身丈1丈6尺台座2間半、鋳像では千葉県一を誇る大きさである。
中山法華経寺第一世貫主日常聖人の銅像です。奥之院にもあります。そして日常聖人と息子の日頂上人ゆかりの泣き公孫樹。
法華経寺には重要文化財以外にも、鏡池跡、龍閑橋、宝殿門、鐘楼堂、そしてその周りには季節ごとに咲く花々があります。
安土桃山から江戸初期にかけて活躍した芸術家本阿弥光悦のほか、連歌師宗長、明治の詩人正岡子規ほか法華経寺を訪れています。
中山法華経寺は奥之院や遠寿院、中山四院家などたくさんの素敵な塔頭が建てられています。
法華経寺の周辺には、塔頭寺院ほか東山魁夷記念館などがあり、歴史と文化を楽しめる散歩道です。
中山法華経寺は桜のお花見の名所として、桜の季節にはたくさんの参拝客で賑わいます。