大本山 正中山法華経寺 ゆかりの文人・芸術家・著名人
大本山 正中山法華経寺にゆかりの文人・芸術家・著名人
安土桃山から江戸初期に活躍した芸術家本阿弥光悦をはじめ、室町時代の
連歌師宗長、明治の俳人・
歌人の正岡子規、子規の弟子で俳人・小説家の
高濱虚子、小説家・評論家の
斎藤緑雨、そして
永井荷風、現代市川在住の俳人毛塚静枝さんの歌碑もあり、そして初代台湾総統蒋介石氏の銅像もあります。
本阿弥光悦筆扁額 本阿弥光悦分骨墓 本阿弥家分骨墓
法華経寺には江戸時代初期に活躍した能筆家で芸術家本阿弥光悦筆の扁額が3点あります。国指定重要文化財の祖師堂には「祖師堂」、法華堂には「妙法花経寺」、仁王門には「正中山」の3点です。また、本阿弥光悦と本阿弥家の分骨墓もあり、いずれも市川市指定の文化財です。
また、国指定重要文化財である法華経寺五重塔は本阿弥光悦の甥(本家に嫁いだ姉の息子)本阿弥光室が両親の菩提を弔うために、加賀藩主前田利光公の援助を受けて建立したものです。
安土桃山時代から江戸時代初期の芸術家。京都の人。
刀剣鑑定の名家、本阿弥家分家、本阿弥光二の長男。通称は次郎三郎、のち光悦。号は自得斎、徳有斎、太虚庵。
家業の刀剣研磨、鑑定はもちろん、書、製陶、蒔絵、茶道などにも精通した。書は独自の光悦流を創始し、俵屋宗達などに下絵を描かせた料紙との調和美を誇る和歌を多く書き、近衛信尹、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と並び称された。「金銀泥下絵色紙(奈良市大和文華館所蔵)」は有名。製陶では国宝「楽焼白片身替茶碗(銘不二山)」「楽焼黒茶碗(銘雨雲)」をはじめ、楽焼茶碗に傑作を残した。蒔絵は古典に主題を求めたものが多く、鉛、錫、青貝を使用した国宝「舟橋蒔絵硯箱(東京国立博物館蔵)」が代表作。陶芸・漆芸でも、光悦楽焼・光悦蒔絵の創始者として一家をなす。また、角倉素案らとともに、豪華なひらがな活字本の謡曲「嵯峨本伊勢物語」を刊行した。茶道は初め古田織部を師とし、後に武野紹鴎系統の陀茶に傾倒した。絵画彫刻には確証ある遺品わない。
元和元年(1615)に徳川家康から京都洛北鷹峯の敷地を与えられ、一族、配下の工芸家を集めて芸術村を作った。
孫の本阿弥光甫が記した「本阿弥行状記」に詳しい。
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クロニック戦国全史
日蓮宗と本阿弥家
本阿弥光悦の曾祖父本阿弥清信は、刀剣の鑑定や研磨などを家業として室町幕府第六代将軍足利義教(〜)に仕えていましたが、将軍義教の怒りに触れて投獄され、たまたま日親上人と獄舎を共にする身となり、相親しみ相語らう内、上人の教化に深く感動して帰依致しました。
後に許されて獄舎を出た清信は、剃髪して日親上人より法名を授かり、本光と称し、有力な日蓮宗の信者となり本法寺の大檀越となったのであります。
参考
日蓮宗本山叡昌山本法寺(京都府京都市)ホームページより
連歌師宗長著「あづま路のつと(1509年)」のなかで、
ままの継ぎはしをわたり、中山の法花堂本妙寺に一宿して、あくる日一折りなどありしかど、発句ばかりを所望にまかせて、
杉の葉やあらしの後の夜半の月
その夜あらしのはげしかりしばかりなり。今日はことに日も長閑にて、かつしかの浦春のごとし・・・。
連歌師 宗長
文安5年(1448)〜享禄5年3月6日(1532)
室町時代の連歌師。駿河国島田(静岡県島田市)の鍛冶職の子。幼名長六。初め宗歓と称し、長阿・柴屋軒と号した。
若くして宗祇の門に入り、40年変わりなく仕え、旅行にも多く同行した。
宗祇と、肖柏とともに賦した。「水無瀬三吟百韻」は特に有名。宗祇の越後旅行に際し、駿河から出向いて病床を訪れ、同行して箱根における死に会い、「宗祇終焉記」(1502)を書いた。後に駿河国丸子の柴屋軒に隠棲、関西や東国、北国を旅行し、「東路のつと」(1509)、75歳から80歳まで書き継いだ「宗長手記」、「宗長日記」(1530〜31)を残した。
大徳寺の一休和尚に参禅したことがあり、軽妙洒脱で、俳諧、狂歌もたしなんだ。
ほかに「雨夜記」(1519)「連歌比況集」、句集「壁草」(1512)「那智籠」(1517)、「老耳」(1522〜26)などがある
参考
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明治29年、脊椎カリエスにかかりながらも句会を催していた、そんな秋のこと、正岡子規は中山法華経寺詣でを思いつき中山にきて、句を残しています。
正岡子規全集2巻p320
「中山をひとりこえたる二月哉」
「命なり小夜の中山秋の蝶」
全集2巻p524 中山寺
「気違ひの並びし秋の夕かな」
全集2巻p538 中山の蕎麦屋にて
「新酒酌むは中山寺の僧どもか」
全集2巻p538 中山寺にて
「釣鐘の寄進につくや葉鶏頭」
正岡子規
慶応3年9月17日(1867)〜明治35年9月19日(1902)
俳人・歌人、愛媛県松山市に生まれる。本名は正岡常規、別号獺祭書屋主人・竹乃里人。
1892年東京大学文学科を中退。新聞「日本」に入社。同紙に拠って俳句革新運動ののろしを上げ、「獺祭書屋俳話」を連載。「文界やつあたり」(1893)、「俳諧大要」(1895)などを書く一方、「歌よみに与ふる書」(1898)以後、根岸短歌会を結成して短歌革新に力を尽くした。俳句、短歌ともに写生(写実)を旨とする文学であることを主張。俳句では内藤鳴雪、佐藤紅緑、河東碧悟桐、高浜虚子ら、短歌では香取秀真、岡麓、伊東左千夫、長塚節らの俊秀を育て、俳句確信に着手し、俳誌「ホトトギス」により活動し、のちの「ホトトギス」派、「アララギ」派の礎を築いた。句集「寒山落木」、歌集「竹乃里歌」、随筆「墨汁一滴」(1901)、「病牀六尺」(1902)、日記「仰臥漫録」(1901〜1902)など
高浜虚子の写生文集「中山寺」に、正岡子規は「日蓮好き」と書かれている。
参考
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高濱虚子の写生文集「中山寺」には、虚子が明治31年(1897)秋の中山・八幡・市川に訪れた際の様子が描かれています。当時24歳の若い虚子は中山法華経寺に特に興味もない様子であり、「子規子の日蓮好き」という言葉もあり、正岡子規に影響されたのか促されてか、下総の中山寺に行こうと考えて実行したようです。
4年ほど前の明治27年(1893)12月に開通した総武鉄道(現在の総武線)にのり、中山で降り、中山法華経寺を訪れました。
虚子は
祖師堂の階に腰をおろし、物思いにふけっていたようです。「都市を離れて遠からず」と理想の家について言及しています。法華経寺で考えていたので、中山の環境を褒めているように感じることができます。
そして
八幡のやぶしらずと
千本公孫樹を見に
葛飾八幡宮にも立ち寄りました。当時八幡様の参道は公孫樹並木でなく松並木であり、また千本公孫樹は千本榎と思っていたと書かれいる点が興味深いです。また、若い高浜虚子は市川で汽車を待つ時間を惜しみ徒歩で帰路につきました。虚子は江戸川を利根川と呼んでいる点も面白いです。
高濱虚子
明治7年2月22日(1874)〜昭和34年4月8日(1959)
俳人・小説家。本名は高浜清。
正岡子規と同じ愛媛県松山生れ。
正岡子規に師事。「ホトトギス」を主宰。客観写生、定形と季語を尊重し、また俳句の理念は花鳥諷詠にあると主張し、俳句の普及と後輩の育成に努めた。写生文・小説もよくし、「鶏頭」「俳諧師」「柿二つ」などの創作がある。門下に飯田蛇笏、中村草田男、水原秋櫻子、中村汀女なかむらていじょなどがいる。
句集「五百句」「虚子句集」のほか、小説「俳諧師」「柿二つ」もある。
昭和12年芸術院会員。昭和29年文化勲章受章。
定本高浜虚子全集第8巻写生文集1に高濱虚子が法華経寺を訪れた時の様子が描かれています。
引用・抜粋および参考
市川市ホームページ
市川市立図書館ホームページ
定本高浜虚子全集第8巻写生文集1「中山寺」 毎日新聞社
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新制版 日本史辞典
美術人名辞典
デジタル大辞泉
デジタル版 日本人名大辞典
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明治文学全集28巻 p312 “・・・天麩羅のむきみとは一對なり。中山なる法華経寺の會式に參りたる時、?の丸揚かき揚の何れを取るもすさまじきを、山門の傍にて見たり。・・・”
齋藤緑雨は、借金取りから逃れて市川に住んでいたそうです。
斎藤緑雨
慶応3年12月31日(1867)〜明治37年4月13日(1904)
小説家、評論家、随筆家。三重県(伊勢国神戸)出身。本名は斎藤賢。別号、江東みどり、正直正太夫などがある。
初め法律を志したが、のち仮名垣魯文に師事して文学に向かった。鋭い風刺を含む批判で知られた。坪内逍遥、二葉亭四迷、尾崎紅葉ら当時のぶんだんを揶揄した評論「小説八宗」で注目され、以後辛辣な風刺に富む独自の作風を開いた。
江戸文学と近代文学の接点にいた作家で、小説「油地獄」(1891)、「かくれんぼ」(1891)、随筆集「青眼白頭」(1900)どがある。
参考
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永井荷風は昭和21年1月に市川市に移り、市川市内を散策していたようです。永井荷風の日記「断腸亭日乗」には、市川市内の昭和初期の様子が詳しく描かれています。当寺荷風の友人の住んでいた船橋市海神に行く途中でよく下総中山周辺を散策しています。その中に、法華経寺が描かれています。また、「中山散策」の文字も幾度か見られます。
昭和21年10月31日、正午歩みて中山に至る、法華経寺の境内鬼子母神祠前の絵馬堂を見るに一孟斎芳虎の描ける烏帽子武者人物あり、、また油絵の西洋風景があり、色彩剥落し画布半破れたれど珍しければ、奉納者の名を見るに、千葉県下長柄郡□□□□大字五井、片岡□□、米国サンフランシスコ在留せんまつとあり、いかなる女にや、・・・。
昭和21年12月4日、午後中山法華経寺の境内を過ぎ人家つづきの道を歩み奥之院門前より競馬場の塀外に出づ、田間の小径を歩みて海神に至る。
昭和22年10月16日。・・・。共に中山法華経寺御会式の景況を見る。
昭和22年10月17日。午後中山散歩。法華経寺境内今日も御会式にて雑沓す。軽業手踊を見る。木戸銭大人弐拾円子供拾円。大入の景気なり。四時過曇りし日早くも薄暗し。帰らむとする時火消の講中三四組各金箔の纏を打振り来るに遇う。物売る露店の娘の見て笑うもあり。混沌たる今日の世態之を見て亦その一斑を知る可し。
以上 断腸亭日乗より
永井荷風
明治12年12月3日東京生まれ、昭和34年4月30日千葉県市川で没する。(1879〜1952)
小説家。本名、壮吉。別号、断腸亭主人ほか。
1899年東京高商付属学校清語科中退。広津柳浪のに師事し、フランスの小説家ゾラの影響を受け、「地獄の花」(1902)などでゾライズムの紹介を試みた。1903年にアメリカ、次いでフランスに渡り08年に帰国。「あめりか物語」(08)で名声を得、09年「ふらんす物語」「深川の唄」「すみだ川」「冷笑」などを発表。独自の文明批評と耽美享楽の作風で反自然主義の代表作家として重きをなした。東京の形骸化した文明への憎悪、大逆事件(10〜11)の衝撃などで江戸趣味を強め、花柳界を描いた「腕くらべ」(16〜17)、「おかめ笹」(18)などを発表。「つゆのあとさき」(31)、「?東奇譚」など風俗描写にも才筆を示した。
第二次世界大戦中は沈黙したが、戦後、その間にひそかに書きためた「浮沈」「踊子」「勲章」「来訪者」や17年以来の日記「断腸亭日乗を発表。
1946年1月に千葉県市川市に移り住む。52年文化勲章受章。
参考
「新版 断腸亭日乗 第六巻」 岩波書店
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毛塚静枝
毛塚静枝
俳人。茨城県生まれ。昭和12年から市川市在住。市川や中山法華経寺を題材とした作品が多数ある。
左の句碑は聖教殿へ至る参道、宝殿門下の石段を昇った左手にあります。
句碑には、「聖教殿霜一枚のいしだたみ」と書かれています。
市川図書館図書案内
中山法華経寺の交通案内と所在地
中山法華経寺の最寄り駅と住所
- JR総武線下総中山駅下車 徒歩5分
- 京成線京成中山駅下車 徒歩1分
- 千葉県市川市中山2−10−1
日蓮宗大本山 正中山法華経寺 境内と周辺の観光名所ご案内
本院の奥に鬼子母神堂があります。日蓮大聖人御親刻の鬼子母神像を安置されています。。怨魔退散、子育ての守護神として崇められています。
法華経寺の春は満開の桜に彩られます。夏は龍王池の蓮の花、秋は泣き公孫樹。大荒行入行会、大荒行成満会、節分会など季節ごとに趣があります。 また、春と秋には境内で骨董市も開かれます。
比翼入母屋造りのお堂。中老日法上人の作の日蓮聖人像が安置されています。両脇には当山歴代6祖の御像を奉安いたします。正面の大額「祖師堂」は本阿弥光悦筆。
江戸時代前期元和5年(1622)18世正教院日慈上人代に本阿弥光室の本願により、加賀(石川県)前田公の寄進により建立されました。三間四面銅板葺。
鎌倉時代文応元年(1260)創建。日蓮聖人自ら一尊四菩薩を開眼安置。百日百座説法の霊跡。
切妻造檜皮葺、約七百年前鎌倉愛染堂に在ったものを移築して法華堂の正門に立てたもの。
建築家伊東忠太氏の設計。法華経寺の寺宝を保管している。11月のお風入れの際には、その一部を公開しています。
清正公大神祇とは、戦国武将で大壇越の加藤清正公没後、神仏の化身として信仰するようになったのだそうです。
三大荒行で知られる日蓮大聖人直授の秘伝、大荒行が行われる 11月1日より2月10日までの百日間、この建物で行われます。
三門・赤門とも呼呼ばれています。広壮な建物。扁額「正中山」は桃山から江戸時代に活躍した本阿弥光悦筆によります。
十羅刹女・鬼子母尊神・大黒様を安置し、罪障消滅の霊場として、参詣者が終日、太鼓の音を響かせている。甲子の日は特別祈祷が厳修される。
総門とも呼ばれています。古風にして雄大、太田資順筆の如来滅後、閻浮提内、本化菩薩、初転法輪、法華道場の額を揚げてあります。
日蓮聖人開眼の八大龍王を祠る御堂。雨乞の霊験ありと伝えられています。近年は商売繁盛の守護神として参詣者が後を絶ちません。
法華経寺の守護の宇賀徳正神の本社であり、財福の神として広く知られている。この裏手に清正公堂や太田稲荷が祀られている。
千葉家伝来の北辰妙見尊星を第3代日祐上人が正法護持国土安穏除災招福の守護神として奉安する。11月には酉の市も行われます。
奥之院は日蓮聖人がはじめて説法をした地とされています。また、法華経寺第一世貫主、日常聖人が法華寺を建立した地です。
享保4年(1719)法華経寺59世日禅上人代に鋳造され身丈1丈6尺台座2間半、鋳像では千葉県一を誇る大きさである。
中山法華経寺第一世貫主日常聖人の銅像です。奥之院にもあります。そして日常聖人と息子の日頂上人ゆかりの泣き公孫樹。
法華経寺には重要文化財以外にも、鏡池跡、龍閑橋、宝殿門、鐘楼堂、そしてその周りには季節ごとに咲く花々があります。
法華経寺とゆかりの文人・芸術家
安土桃山から江戸初期にかけて活躍した芸術家本阿弥光悦のほか、連歌師宗長、明治の詩人正岡子規ほか法華経寺を訪れています。
中山法華経寺は奥之院や遠寿院、中山四院家などたくさんの素敵な塔頭が建てられています。
法華経寺の周辺には、塔頭寺院ほか東山魁夷記念館などがあり、歴史と文化を楽しめる散歩道です。
中山法華経寺は桜のお花見の名所として、桜の季節にはたくさんの参拝客で賑わいます。