桜の霊場龍経山妙正寺と七経塚伝説と市川七福神
桜の霊場として知られる
龍経山妙正寺は、境内に建てられた石板「宗祖櫻之霊場縁起」によると、現中山奥之院が建立された当時に建てられた、800年近い歴史のある寺院です。創建に関わる七経塚の伝説で知られる寺院でもあります。江戸名所図会にも紹介された名刹です。また境内には、市川七福神の壽老人と福・禄・壽の像をはじめ美しい石仏が安置されています。
もちろん桜の霊場の名にふさわしく、境内にたくさんの桜の木が植えられ、また、妙正寺の裏のため池と畑の間の桜並木は、大柏川の桜並木に続きそして桜のお花見の名所
真間川へと続きます。桜の季節には、桜のお花見を満喫できる散歩道です。
桜の霊場 龍経山妙正寺
宗祖櫻之霊場縁起
寺号 妙正寺
所在 千葉県市川市北方町4−2122(通称名 千足)
開基 宗祖日蓮大聖人
開山 常修院日常聖人
開創 文応元年(西暦1260年)鎌倉時代
爰に下総国葛飾郡中山千足妙正寺に安置し奉る妙正大明神は、遠く其の源を尋るに、人皇八十九代後深草帝の御宇、下総の領主富木播摩守胤継公、宗祖日蓮大聖人を若宮の舘に迎へ奉り、法華堂(現在の
奥之院)を建立し百座の法莚を願い奉る。大聖人是の堂に在て説法し給ふに、遠近相伝えて聴衆日に倍々多し。其の内一老婦人あり。日々来たりて聴聞す。衆人何処より来るを知らず、皆之を怪みけり。説法満日の砌、先の老婦人大聖人に本尊及法号並に法華経一部八軸を賜らん事を希ふ。且つ大聖人に述べて曰く、「我必ず当に末世の児童を守護すべし」と。斯く誓ひしかば、大聖人直に「疱瘡守護の誓約、妙正に授与するなり」と記したる曼荼羅を与へ、名を「妙正」と授け、八軸の法華経を賜ふ。老婦大いに歓喜して去りぬ。人々窃に尾して之を瞰へば、八軸の内七軸の法華経は途中所々に一軸ずつを安ぜり。後世之に拠て曼荼羅小路亦は七経塚と号す。老婦東北十余町許り距たりたる千足の池沼に至り忽焉として消え失せ、其の曼荼羅は池に臨める櫻の枝に懸け置かれたり。亦、最後の一軸第五の巻は池の辺に安ぜり。
御神詠「昔より 約束なれば いもはしか 病むとも死なじ 神垣の内」
後に富木播摩守胤継公、出家得度し常修院日常と名を改む 日常聖人池の辺に一社を構へて竜經山と号し、妙正大明神を崇め奉るに至れり。爾来若し人病に罹り苦しむ時、大明神に祈らば忽ち病苦を免れ、其の霊験の速なる事、猶乳母の乳を小児に与ふるが如し。世人之に依りて亦乳母神と称するに至る。茲に明暦年間同国印旛郡車方村に悪疱瘡流行し、児女其の大半を失ふ。村民諸神に祈るも更に験なし。皆挙て唯愁き悲むの外無かりき。時に同村の寺僧一心に諸神に村民安全を祈願せしに、一夜霊夢あり。諸神告げて曰く、「汝千足の妙正大明神に祈願し、霊櫻を削りて霊符と為さば、速に悪疾退散村内安全ならん」と。夢覚めし後、直に村人に語るに皆大に歓び馳来りて、妙正大明神に祈念し霊符を得て病者に与へしに、忽ち拭ふが如く村内安全を得たり。其の後経歴3年近郷近村に大悪疾流行し死者竪横なりし時、再び大明神に祈り霊符を以て忽ち安全を得たり。夫れより世人復「櫻之霊場」と号して遠近参拝以て今日に至れり。是唯縁起の概略を述ぶるのみ。
希くば浄信の善男善女速に詣でて、現世安穏・後生善処の本縁を結ばしめ玉へと云爾。
- 當寺に安置せる妙正大明神の御尊像は宗祖日蓮大聖人の御開眼なり。
- 開運高祖日蓮大菩薩の御尊像は、文永11年2月2日師孝第一の日朗菩薩の御作に係る霊像なるを以て、威霊の赫々たるを徴するに足れり。
- 尚、千足の地名は若宮の法華堂より妙正池まで千歩あったとの謂われに由来する。
龍経山妙正寺境内「宗祖櫻之霊場縁起」より
妙正寺と七経塚伝説
七経塚
文応1年(1260)の松葉ヶ谷法難、そして文永1年(1264)の小松原法難の後、日蓮聖人は若宮の地(現中山奥之院)に避難されました。その際に、百日説法をして下さりました。近郷近在の老若男女が集まり、尊いお話を毎日ありがたく聞いていました。
そのなかに、一人の美しい女性が毎日真剣に説法を聞いていました。ところが、同じく説法を聞きに来ている人々の誰に聞いてもこの女性の名前などを知る人はいませんでした。
説法も百日目、最終日となり、この女性は日蓮聖人の元に行き、礼を言い、日蓮聖人直筆の曼荼羅と法号が欲しいと言いました。
日蓮聖人はこの女性をじっと見つめたところ、女性から湧き出る怪しい気を感じ取り、手元にあった花瓶の水を女性めがけてかけました。
すると、空模様が一瞬で怪しく変わり、人々が驚き慄いている隙に、この女性は日蓮聖人の経机から八巻の経文を奪い逃げ去りました。
女は白蛇が化身したものでした。
説法を聞いていた人々がこの白蛇を追うと、白蛇は経巻を落しながら千足池まで逃げてゆき、そして姿を消しました。白蛇は千足池の主姥神でした。
人々が千足池まで来ると、池に被さる様に伸びた桜の木の枝に、経巻がかかっていました。
後に日蓮聖人はこの白蛇に「妙正」という法号を与えました。
また、八巻目の経のかかっていた桜は疱瘡治癒の霊験のある桜として知られ、以来妙正寺は霊場として近隣近在の多くの人々の信仰を集めました。
そして、七巻の経の落ちていたところに、塚が建てられ、七経塚と呼ばれるようになりました。現在では龍経山妙正寺駐車場に移され保存されています。
※ 姥神は
姥山貝塚の地名と関連があり、七経塚は女人帰依伝説の一つ。
出典・抜粋・引用および参考
龍経山妙正寺境内「宗祖櫻之霊場縁起」
龍経山妙正寺壽老人と福・禄・壽石像脇案内板
改訂新版市川のむかし話
江戸名所図会6 ちくま学芸文庫
市川市ホームページ
桜の霊場龍経山妙正寺と周辺の花見スポット
桜の霊場妙正寺を出て左に進み信号を角を左に曲がると畑の間に市川東高校という道しるべがあります、この標識通り小道にはいれば、そこが桜並木の始まりです。南側にため池があります。この溜池は明治初期の地図にも載っており、千足池の名残ではないかと想像します。そして東高校の北側を大柏川まで桜並木は続きます。もちろん大柏川も桜の名所、並木道は真間川へと続きます。少しだけいつもと違ったお花見が楽しめます。
市川七福神 壽老人と福・禄・壽
福・禄・壽
福とはよい人間関係に恵まれる幸せ、禄とは財産に恵まれる幸せ、壽とは生命、健康に恵まれる幸せ、人間の幸せの根源を具現化した神様です。
壽老人
長命、天壽全うを願い、種々の病の平癒と人々の安全と健康を守る神様です。
これらの神様にあやかれば、大きな病気もせず日々健康に暮らせ、不老長寿を授かることができるといわれています。
龍経山妙正寺
龍経山妙正寺壽老人と福・禄・壽石像脇案内板より
市川七福神の寺院
- 1番 毘沙門天 国分寺(国分3−20−1)
- 2番 恵比須天 所願寺(宮久保4−12−3)
- 3番 大黒天 本将寺(大野町2−919−1)
- 4番 毘沙門天 淨光寺(大野町3−1917)
- 5番 福禄寿・寿老人 妙正寺(北方町4−2122)
- 6番 弁財天 中山奥之院(若宮2−21−1)
- 7番 布袋尊 安養寺(高谷2−16−35)
- 8番 一所七福神廻り 妙応寺(本行徳2−18)
龍経山妙正寺の最寄り駅と住所
- JR武蔵野線「船橋法典駅」より徒歩11分
- 所在地:千葉県市川市北方町4-2122
龍経山妙正寺近くの観光名所 ご案内
中山法華経寺の参道や周辺にはたくさんの寺院があります。これらの寺院は奥之院や遠寿院をはじめ、中山四院家と呼ばれ、法華経寺の歴史を共に伝え、中山の街の文化を彩る素敵な寺院です。
市川市東山魁夷記念館は、20世紀の日本を代表する国民的日本画家、東山魁夷画伯がの作品をはじめ、身の回りの品やさまざまな資料を通じ、その生涯と芸術をご紹介する記念館です。
奥之院は日蓮聖人がはじめて説法をした地とされています。また、法華経寺第一世貫主、日常聖人が法華寺を建立した地でもあります。ひっそり咲く紅梅が魅力。
日蓮宗祈檮相傳荒行道場として有名な正中山遠壽院。徳川将軍家、前田家、道灌ゆかりの太田家など古くから人々の厚い信仰と信頼を集める、中山の歴史と伝統を伝える寺院。
剣豪宮本武蔵の隠れ家、吉川英治著「宮本武蔵」で武蔵と伊織が出会った場所として紹介されているお堂。
市指定文化財「日蓮坐像」と、忠臣蔵「松の廊下」に登場する梶川与惣兵衛ゆかりの歴史あるお寺。
縄文時代中期から後期の馬蹄形貝塚。竪穴住居跡が日本で初めて完全な形で発掘された国指定史跡。
龍経山妙正寺
七経塚伝説で知られる桜の霊場として知られる寺院。市川七福神の寿老人と福禄寿をお祀りしています。
常盤井姫に創建と、奉免の地名の由来を伝える、日蓮宗最初の尼寺。
中山法華経寺参道にある静かな庭園。市川市役所の出張所もあります。
戦国里見氏の少年武将広次にまつわる言伝えのある神社。
戦国里見氏に仕えた武将正木時総にまつわる言伝えのある古社。
保存木に囲まれた歴史ある神明社と小栗判官ゆかりの銀杏とお不動様で知られる鬼越山神明寺。
日蓮宗開祖日蓮聖人と中山法華経寺初代管主日常聖人ゆかりの小さな八幡宮。
日蓮聖人ゆかりの寺院と地域の自然を保存した藤棚のある小さな池。
葛飾の小さな丘の上に建つ、永井荷風も訪れた桜の花咲く鎮守様。
永井荷風に紹介された、葛飾湧水群を偲ばせる住宅街に残る井戸。
満開の桜と国指定重要文化財の共演が美しい、鎌倉時代から続く古刹。
市川を縦横に流れる真間川は、桜の名所としても有名です。お花見の時期にはたくさんの人で賑わいます。
JR本八幡駅からシャトルバスも出ている商業施設。博物館や図書館あり、一日中楽しめます。
桜のお花見の名所として知られる中山法華経寺。国指定の重要文化財が複数ある博物館のような古刹。