東海山善福寺と内匠堀の田中十兵衛
東海山善福寺は元和5年に建立された三門のとても美しい新義真言宗の寺院です。江戸時代に浦安と行徳の農業用水をとして
田中内匠と狩野浄天によって開削された「内匠堀」。鎌ヶ谷市からこの浦安市当代島までを結んでいたそうです。東海山善福寺は内匠堀の終着点である浦安市当代島にあります。そして善福寺には内匠堀の開削と当代島の開拓にに尽力した田中十兵衛のお墓があります。東海山善福寺は
浦安行徳三十三所観音霊場第29番札所です。
田中十兵衛墓
十兵衛は、天正・文禄(1573〜95)頃に生まれた人と推定され、俗に内匠十兵衛といわれ、江戸小岩村から当代島に移住し、同村の開墾主といわれました。十兵衛は常に公益を第一に善行に富んだ人で、村人の信望が厚く、特に土木技術に優れていたと伝えられています。
昔、当代島村から八幡村(現市川市)にかけては、土地が低いために、たびたび水害が起き、稲の生育には適さない場所でした。このような状況を解決するために、十兵衛は元和6年(1620)に欠真間村
源心寺(現市川市)の
大壇那狩野浄天(新右衛門)とともに、幕府の許可を得て、高所の囃子水(現鎌ヶ谷市)から
真間川を経て、低地の当代島まで、灌漑と排水を備えた水路を開削しました。この水路は、開創した内匠十兵衛、浄天の名をとって、「内匠堀」「浄天堀」と呼ぶようになりました。
墓碑は、十兵衛の死後不明でしたが、後年村民によって発見され、その功績を後世に伝えるため、善福寺に建立されたといわれています。
平成25年(2013)8月
浦安市教育委員会
東海山善福寺田中十兵衛墓前案内板より
東海山善福寺宝篋印塔
宝篋印塔(浦安市指定有形文化財)
昭和61年(1986)市指定有形文化財
宝篋印塔とは、主に中世以降に建てられた石塔の一形式で、この名称は、「宝篋印陀羅尼」の経文を内部に納めたことに由来します。
この宝篋印塔は、善福寺が創建された明暦2年(1656)からちょうど百年目にあたる宝暦6年(1756)に建てられました。
塔には、この塔の建立に尽力した人物の名が刻まれており、當代島村、猫實村、新井村、欠真間村、相野川村など、近くの村だけでなく、江戸に住む人々の名もみられます。また、この塔をつくった石工、江戸北八丁堀松屋丁(町)上総屋仁兵衛の名も刻まれています。
平成元年(1989)、塔の内部から「宝篋印陀羅尼」が刻まれた銅板のほか、宝暦5年の「宝篋塔多宝塔建立勧化帳」、「寄付金帳」などの古文書類、また和紙に包まれた3本の歯や木製の小さな塔などの資料が発見されました。
それらによると、この塔を供養、礼拝すれば長い間積もった罪科が消滅するなどの建立趣旨や、近隣の村人たちがお金を出しあってこの塔を建てたということがわかります。
市内では、宝城院(堀江4丁目)や花蔵院(猫実3丁目)にも宝篋印塔が存在しています。
平成25年(2012)8月
浦安市教育委員会
東海山善福寺宝篋印塔前案内板より
抜粋・引用および参考
東海山善福寺田中十兵衛墓前案内板
東海山善福寺宝篋印塔前案内板
房総叢書 紀元二千六百年記念 第6卷葛飾誌略
改訂新版 市川のむかし話
江戸川ライン歴史散歩 崙書房
東海山善福寺の最寄り駅と住所
- 東京メトロ東西線「浦安駅」より徒歩6分
- 千葉県浦安市当代島2−6−27
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